写真で見る日本の歴史
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152-4
宇和島城
三之門跡
152-5
宇和島城
一之門跡
152-6
宇和島城
天守2
152-7
宇和島城
天守内部の階段
愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市
くぐってすぐ本丸の石垣が立ちはだかるので、右折することになります。
本丸に続く入口の門跡です。枡形の構造になっていました。梯形門。天守がある本丸に至るにはこの門を通らなければなりません。
小ぶりですが唐破風と千鳥破風を用いたつくりで美しい姿をしています。寛文7年(1677)に完成されたもので、その後何度かの修復を経て現在に至っています。
寛文年間という江戸時代の太平の世に建築されたこともあって、天守内部は武者走りや狭間などの戦闘設備はありません。宇和島城の天守は、三層三階建てです。
153-1
宇治十帖古跡1「橋姫」
宇治十帖「橋姫」
153-2
宇治十帖古跡1「橋姫」
橋姫社
153-3
宇治十帖古跡1「橋姫」
橋姫神社全景
154-1
宇治十帖古跡1「椎本」
宇治十帖「椎本」
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
「橋姫」は、宇治十帖の1、源氏物語第45帖にあたります。光源氏の子である薫は、宇治で俗聖として過ごしていた八の宮のことを知り、宇治に見舞いに訪れるようになります。ある日、八の宮邸を訪れた時に娘の大君と中の君の姉妹を偶然垣間見て、大君に心惹かれるようになりました。そんな時、姉妹に仕えていた老女房の弁から、実は薫は光源氏の子ではなく柏木と源氏の妻、女三の宮との間にできた不義の子だったという出生の秘密を知ることになります。
宇治橋が架けられた大化2年(646)に宇治橋の守り神として橋姫神社が建立されました。境内には、橋姫社と共に、同じ水の神の住吉神社が並んで祭られています。
宇治橋の西にあります。明治3年(1870)の洪水で流され、今の場所に移されました。源氏物語第45帖「橋姫」の舞台とされています。
「椎本」は宇治十帖の2、源氏物語第46帖にあたります。薫から八の宮のうわさを聞いていた匂宮(光源氏の孫にあたる)は、初瀬詣での帰りに宇治に立ち寄ってから後、八の宮や中の君と歌を詠み交わすようになります。そんな時、病になった八の宮は姫君たちの後見を薫に託して亡くなってしまいました。
154-2
宇治十帖古跡1「椎本」
椎本之古蹟
154-3
宇治十帖古跡1「椎本」
彼方神社
154-4
宇治十帖古跡1「椎本」
鳥居に残る碑文
155-1
門司港レトロ
JR門司港駅
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 福岡県北九州市門司区
椎本の古跡は、彼方神社(おちかたじんじゃ)という小さな神社にあります。
彼方神社の祭神は諏訪明神です。非常に小さな神社です。彼方神社と呼ばれる前は、椎本神社と呼ばれていました。 彼方神社の鳥居には、この地が椎本の古跡であることを記した碑文が刻まれています。
大正3年(1914)の建築です。ネオ・ルネッサンス様式といわれるヨーロッパ風の建築様式で造られています。日本で唯一の国指定重要文化財の駅です。イタリアのテルミネ駅というところをモデルにして造られたそうです。
155-2
門司港レトロ
旧門司三井倶楽部
155-3
門司港レトロ
旧門司税関
155-4
門司港レトロ
国際友好記念図書館
155-5
門司港レトロ
ブルーウィング
福岡県北九州市門司区 福岡県北九州市門司区 福岡県北九州市門司区 福岡県北九州市門司区
大正10年(1921)の建築です。三井物産の社交倶楽部として建設され、平成2年(1990)に現在の場所に移築されました。大正11年(1922)にアインシュタイン博士が夫婦で宿泊した囎ィでもあります。宿泊した部屋は、当時のままで現在に至っています。3階建てで1階はレストラン、2階は、門司生まれの作家、林芙美子ゆかりの資料室となっています。尚、3階は非公開です。国指定重要文化財。
明治45年(1912)の建築です。昭和初期まで税関庁舎として使用されていました。 平成6年(1994)12月竣工の新しい建物です。モデルとなったのは、明治35年(1902)に東清鉄道汽船会社の事務所としてロシアが中国の大連市に建てた歴史建造物です。北九州市と大連市の友好都市締結15周年を記念して複製建築されました。 ブルーウイング門司。門司港の入口にある歩行者専用のはね橋です。平成5年(1993)に完成しました。
156-1
万寿寺
万寿禅寺
156-2
万寿寺
入口
156-3
万寿寺
鐘楼門
157-1
高知城
追手門から見た天守閣
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 高知県高知市
万寿寺のおこりは、平安時代末期に六条内裏の中に建立された六条御堂とされています。もともとは浄土教のお寺だったそうですが、弘長元年(1261)に禅宗に改められ、万寿禅寺と称するようになりました。
京都五山の第五位。臨済宗東福寺派。五条通の一つ北の通りが現在も万寿寺通とよばれているように、もとは京都市中京区万寿寺高倉にありましたが、永享6年(1434)の火災以降に衰え、現在の地に移されました。
室町時代中期以前の建築とされています。重要文化財。万寿寺の入口にあります。
追手門と天守を同時に見ることができるのはここだけといわれています。山内一豊が築城したお城です。天守閣は江戸時代から現存しており、国の重要文化財に指定されています。
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