写真で見る日本の歴史
 トップページすべての画像すべての画像036
931 件から701-720件を表示 U36 37 38 39 40U
前の20件 次の20件
138-1
掛川城
掛川城2
138-2
掛川城
主要部模型
138-3
掛川城
四足門
138-4
掛川城
腰櫓台跡
静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市
資料や発掘調査を元に再建された天守閣です。山内一豊が掛川城の城郭を整えました。
屋外に展示されています。屋外の自然条件下でも耐久性に優れているとされている有田製陶磁が用いられています。正保元年(1644)に幕府が諸大名に提出させた正保絵図をもとに、150分の1の縮尺で再現されています。
発掘調査では門の跡は見つかりませんでしたが、正保絵図を元に復元された門です。本丸入口にある重要な門です。
腰櫓があったとされている場所です。発掘調査で腰櫓へ登る石段が見つかりました。
138-5
掛川城
霧吹き井戸
138-6
掛川城
天守閣
139-1
掛川城
掛川城3
139-2
掛川城
十露盤堀
静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市
天守丸という郭にあります。山内一豊が入城して城域が拡張されるまでは本丸として利用されていたところです。この井戸は「霧吹き井戸」といわれています。永禄12年(1569)に今川氏真(桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の子)の籠城する掛川城を徳川家康が攻めてきた時に、この井戸から霧が立ち込めて城を包み、攻撃から守ったという伝説があります。 掛川城に入城した山内一豊によって最初の天守閣が建設されましたが、嘉永7年(1854)に大地震によって倒壊しました。現在の復元天守は平成5年(1993)に城絵図や古記録を検証して木造で再建されたものです。3層4階で、東西に張り出し部を設けたり、入口に附櫓を設けたりして、外観を大きく見せる工夫がなされています。 大手門付近から撮影しました。 天守を囲む堀です。由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来ともいわれています。
139-3
掛川城
腰曲輪跡
139-4
掛川城
掛川城御殿
139-5
掛川城
御殿内部
139-6
掛川城
御殿と天守
静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市
天守丸と十露盤堀のあいだにあった曲輪です。二つの櫓と井戸がありました。
御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。掛川城の御殿は文久元年(1861)に再建されたものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などとして利用されていました。国指定重要文化財。
内部は書院造で7棟より構成されています。このうち書院棟とよばれる部分は、主室の御所院上の間(大書院)と謁見者の控える次の間とニの間、三の間からなります。(写真は三の間で奥が次の間) 御殿から天守を見るとこのようになります。
140-1
国宝建築5
東大寺南大門
140-2
国宝建築5
興福寺東金堂
140-3
国宝建築5
唐招提寺講堂
140-4
国宝建築5
富貴寺大堂
奈良県奈良市 奈良県奈良市 奈良県奈良市 大分県豊後高田市
南大門はそのお寺の正門であることが普通ですが、東大寺の南大門も例外なく現在も正門として存在します。この門は五間の幅があります。治承4年(1180)の平重衡による兵火のため、東大寺の伽藍が焼失した後、その復興造営のひとつとして建てられました。後白河法皇は、法然に東大寺再建の院宣を下してましたが、高齢を理由に弟子の俊乗坊重源上人を推挙しました。重源は、大勧進の職に就いて復興造営の総指揮を執りました。また、重源は、天竺様(大仏様)という建築様式をはじめて採り入れた人物としても知られています。正治元年(1199)に上棟、数年後に完成しました。
神亀3年(726)聖武天皇が叔母にあたる元正天皇の病気全快を願って造立したのがはじまりです。創建後、戦災など何と6度にもわたる再建を繰り返しましたが、現在の建物は、応永22年(1415)に建てられたものです。
講堂は平城宮からの移築です。現存する平城宮の建築物は、この講堂のみですので、その文化的価値は非常に高いと考えられます。堂内には、本尊の弥勒如来(鎌倉時代)および、持国天・増長天が安置されています。
平安時代後期(12世紀)の建築とされる大堂は阿弥陀如来像(重要文化財)をまつる阿弥陀堂です。本尊の背後には法隆寺金堂の壁画にも似た壁画が描かれています。内部の保護のため天候が悪い時は見学できません。正面は3間、側面は4間で宝形造とよばれる様式に属します。昭和27年に国宝に指定されました。
140-5
国宝建築5
法隆寺中門
141-1
玖島城

141-2
玖島城
板敷櫓からの眺め
141-3
玖島城
角堀跡
奈良県生駒郡斑鳩町 長崎県大村市 長崎県大村市 長崎県大村市
門の中央に柱を持ち、中央の二ヶ所の扉が開く仕組みになっています。左右には塑像の金剛力士像(奈良時代)があります。また、柱にはエンタシスがみられます。中門をくぐると正面に大講堂、左に五重塔そして右に金堂があります。西院伽藍の中心部です。周囲は回廊で囲まれています。通常は三間または五間なのに対し、正面が四間です。また、奥行きが三間と通常より一間長いのは、古い形式であることを物語っています。
戦国時代にキリシタン大名で有名だった大村氏の居城。天正遣欧使節を遣わした大村純忠の嫡男、大村家19代当主、大村善前が慶長4年(1599)に築城しました。別名を大村城といいます。以後、幕末まで一貫して大村氏2万7千石の居城でした。築城当初から天守閣はなく、居館が建っていました。
現在の玖島城の眺めです。慶長19年(1614)の改築の際に、加藤清正の助言もあって、扇の勾配の石垣が造られ、その上に二層の櫓がつくられました。現在再建されている板敷櫓がそれです。写真は、櫓から撮影しました。玖島城跡は、大村出身の近代公園づくりの先駆者、長岡安平(1842〜1925)によって大村公園として造園され、現在に至っています。桜やツツジ、花しょうぶなどが咲き誇る花の公園として市民に親しまれています。
慶長19年(1614)に玖島城の大手口を本小路口に改修した時に造られたもので、黒石原とよばれた昔の海の跡です。現在は、桜田の堀とよばれています。
前の20件 次の20件

トップページへ このページの先頭へ
copyright (C) 社会科ちゃん