写真で見る日本の歴史
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歴史人物
千代
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歴史人物
一豊と千代
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広島平和公園
広島平和記念公園
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広島平和公園
相生橋
岐阜県郡上市 岐阜県郡上市 広島県広島市中区 広島県広島市中区
山内一豊の妻です。一豊との間には女子が生まれましたが、長浜城主だった頃、地震によって亡くしてしまいました。千代は良妻賢母の象徴ともいうべき人物だったらしく、内助の功を発揮し、夫をよくもりたてました。関ヶ原の戦いの直前には、石田三成の密書を受け取りますが、それを開封せず、家康に渡すようにとしたためて一豊に送り、忠義を高く評価されました。一豊の死後は領地の土佐を離れ、京都の妙心寺で余生を過ごしました。ちなみに、きれいな模様がえがかれている和紙、「千代紙」の語源にもなった人物です。
千代が引いているのは、安土城下で売られていた黄金十両の価値がある名馬です。一豊が若くてまだ貧しかった頃、「馬揃え」(兵馬i評会)が行われることになりました。そこで、一豊はこの馬に目をつけたのでした。しかし、黄金十両など当時の一豊にはとても出せませんでした。その話を聞いた千代は、化粧箱の中から、隠し持っていた黄金十両を取り出して「このお金は一豊様に嫁ぐ時、実家の不破家からもらったお金です。一大事の時までは絶対に使うなと言われていました。しかし、今は夫の一大事。どうぞお使いください。」と言い、一豊に渡したのでした。後日行われた馬揃えでは、ひときわ目立つ一豊の馬が織田信長の目に留まり、殊勝なことであると称えられたのです。千代の内助の功が発揮された一場面といえます。
広島市内を流れる元安川と本川にはさまれた旧中島地区。原爆によって町全体が破壊焼失し、戦後、その跡地につくられたのが広島平和記念公園です。公園内には多くの原爆に関するモニュメントをはじめ、記念資料館などの施設があります。
本川(太田川)が元安橋と分岐する位置にあるT字型の橋です。平和記念公園の北の端に位置します。明治11年(1878)に架けられた当初は、中島地区の北端を経由した「くの字型」でした。その後、北側にT字橋が増設され「工の字型」になりました。昭和14年(1939)に最初に架けられた部分が解体されて現在の形になりました。この橋は、原爆投下の目標となったといわれています。地元では、音が似ているため「あいうえお橋」と呼んでいる人もいるとか。
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広島平和公園
レストハウス
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広島平和公園
広島平和記念資料館
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広島平和公園
広島県産業奨励館1
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広島平和公園
広島県産業奨励館2
広島県広島市中区 広島県広島市中区 広島県広島市中区 広島県広島市中区
もとは、昭和4年(1929)に大正屋呉服店として建設された建物です。昭和19年(1944)に広島県燃料配給統制組合の施設となり被爆しました。原爆投下時には37名の人がいたとのことですが、地下室にいた一人が奇跡的に生き残った以外は、全員が死亡しました。昭和57年(1982)から無料休憩所(レストハウス)として利用されるようになりました。
写真は西館です。隣接して東側に東館、西側には広島国際会議場があります。観覧料は大人で50円(子ども30円)です。昭和27年(1952)に制定された「平和記念都市建設法」によって建設されることになり、昭和30年(1955)に開館しました。
平和公園から元安川をはさんで東側にあります。大正3年(1914)に広島県物産陳列館として建設され、翌年に開館しました。原爆による倒壊前の原爆ドームの姿です。原爆ドームの案内板にあった写真を撮影しました。
前の写真とほぼ同じ位置から撮影した現在の姿です。中央の円屋根が破壊されずに骨組みが残っていることから、爆風が真上から来たものと考えられ、落下中心地と推定(実際は南東に150mほどの上空580m地点とされている)されました。戦後は原爆ドームとして、原爆の恐ろしさと平和を訴えるシンボルとして永久保存が決定されました。さらに、平成8年(1996)にはユネスコの世界文化遺産にも登録されました。
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広島平和公園
原爆の子の像1
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広島平和公園
原爆の子の像2
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宇和島城
宇和島城遠景
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宇和島城
上り立ち門
広島県広島市中区 広島県広島市中区 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市
昭和33年(1958)5月5日のこどもの日の完成です。2歳で被爆して10年後に原爆による白血病で亡くなった佐々木貞子さんの死を悼み、彼女をモデルに同級生たちが建設運動を起こして建立しました。
生前、貞子さんが入院先の病室で千羽鶴を折っていたことから、像の周りには千羽鶴が贈られています。修学旅行生などが贈った千羽鶴はかつては像の前に直置きされていましたが、度重なる放火事件などもあって、写真のように置き場が設置されました。像の真下にある石碑には「これはぼくらの叫びです。これは私たちの祈りです。世界に平和をきずくための。」という心を揺さぶられる文章が刻まれています。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石の領主として封ぜられ、築城が開始されました。5年以上の歳月をかけて慶長6年(1601)頃に完成。その後、富田氏を経て、仙台から伊達政宗の長子、秀宗が10万石で入城し、元和元年(1615)から宇和島城とよばれるようになりました。
搦手口(裏口を意味します)から城へ登る上り口に位置しています。薬医門形式の切妻、本瓦葺。寛文年間(1661〜1672)の頃の建築と推定されています。宇和島市指定有形文化財。
151-3
宇和島城
児島惟謙
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宇和島城
登城口
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宇和島城
天守1
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宇和島城
伊達家家紋「三引両紋」
愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市
宇和島藩家老の宍戸家の臣、金子惟彬の二男として生まれました。明治24年(1891)にロシア皇太子が日本訪問中に暗殺されかける事件(いわゆる大津事件)が起こった際、惟謙は大審院長として犯人を裁くことになりました。政府はロシアの報復を恐れて、大逆罪を適用して極刑に処すことを強く求めましたが、惟謙は法の拡大解釈に反対して、司法権の独立を守りました。
現在でもこのように険しい道を登っていかなければなりません。天守閣は標高約80mの城山の頂上にあります。
小ぶりではありますが、3層3階建ての美しい姿をしています。全国に12しかない、江戸時代からの現存天守閣のひとつで、国の重要文化財に指定されています。 独眼竜で知られる伊達政宗の伊達家はもともと、この三引紋を家紋としていました。伊達家初代当主、朝宗が文治五年(1189)に、源頼朝の欧州征伐に参加した功によって頼朝から賜った二引紋を改めたことが始まりとされています。ただ、伊達家は家紋の種類が多く、他に「九曜」「竹に雀」などが使用されていたようです。
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宇和島城
天守模型
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宇和島城
藩老桑折氏武家長屋門
152-2
宇和島城
井戸丸門跡
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宇和島城
井戸丸に残る井戸
愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市 愛媛県宇和島市
天守内に展示してあった模型です。天守の骨組みがよく分かります。実に見事です。木の柱と梁で巨大な木造建築を支える建築法は、木造建築を伝統とした日本文化が得意としたものといえるかもしれません。
終戦後、道路拡張にともなって宇和島藩家老桑折氏の長屋門を移築したものです。長屋と門が一体化した建物で、門の向かって右側が厩、左側は門番と家付きの使用人などが居住するスペースでした。移築に伴って、長屋の大部分が切り取られてしまっています。
井戸丸入口にあたり、この付近に門がありました。苔むした石垣と石段の遺構が確認できます。
現在城山に残る三つの井戸のうち最も重要視されたものです。直径は2.4m深さは約11mあります。この井戸がある郭を井戸丸といって、籠城時など有事の時のために厳重に管理されていました。
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