写真で見る日本の歴史
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建仁寺
法堂
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建仁寺
方丈
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建仁寺
方丈前庭
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建仁寺
本坊
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
明和2年(1765)に上棟。「拈華堂」ともいいます。屋根は二重ですが、下層は裳階(もこし)とよばれる飾り屋根で、一重の建築です。本尊は釈迦如来像です。平成14年(2002)に創建800年を記念して、小泉淳作画伯の双龍が天井に描かれました。
安国寺恵瓊によって慶長4年(1599)に移築されました。もとは安芸国、安国寺にあったものです。本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像です。屋根は銅板でできています。重要文化財。 枯山水庭園で「大雄苑」とよばれています。 俵屋宗達による、かの有名な「風神雷神図屏風」を所有していることで有名です。建仁寺のパンフレットにも描かれています。「風神雷神図屏風」は国宝で、様々なところで紹介されているので、見れば知っている人も多いと思います。
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建仁寺
陀羅尼鐘
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建仁寺
栄西禅師茶碑
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建仁寺
道元禅師修行の遺蹟
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建仁寺
浴室
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
修行僧の就寝時刻の夜10時頃になると、「観音慈救陀羅尼」と一万回唱えながら鐘をつくことから、この名がつけられました。鐘突堂ともいいます。
建仁寺の開山、栄西は日本にお茶を飲む習慣をもたらした人物とされています。生涯、二度にわたって中国(宋)へ渡って禅宗を日本に初めて伝えて、建仁寺を創建しましたが、それとともに、茶の種子を持ち帰って、その栽培と喫茶の風習を日本に広めました。栄西は『喫茶養生記』を著して茶の効果などを記しています。
道元(1200〜1253)は曹洞宗を開いた人物です。建仁寺開山、栄西の高弟明全和尚に師事しました。その後、明全とともに中国(宋)に渡って、仏教を修めました。明全はその地で客死しますが、道元はその舎利(遺骨)をもって帰国し、建仁寺で過ごしました。
禅宗七堂伽藍のひとつです。禅堂、食堂とともに三黙堂のひとつとして厳しい作法が求められる場所です。現在の浴室は寛永5年(1628)の建立と伝えられています。湯気で体を温める蒸し風呂となっています。
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建仁寺
摩利支天堂
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琵琶湖疏水取水口
揚水機場
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琵琶湖疏水取水口
第一疏水
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琵琶湖疏水取水口
第一隧道
京都府京都市東山区 滋賀県大津市 滋賀県大津市 滋賀県大津市
建仁寺の塔頭のひとつで、禅居庵ともいいます。開山は清拙正澄禅師で、嘉暦元年(1326)に摩利支天像をこの地にまつったのが始まりといわれています。摩利支天は陽炎が神格化されたものとの事です。開運、勝利にご利益があるらしく、特に、摩利支天が七頭の猪の上に座していることからか、亥年生まれの人に人気が高いそうです。 琵琶湖の水位が減少した時、ポンプで水を汲み上げるためにつくられました。昭和28年(1953)3月の完成です。平成6年(1994)の空梅雨の時は、節水とこのポンプの稼動が活躍しました。この時、琵琶湖の水位は史上最低のマイナス123cmとなったとのことです。平成11年にはマイナス150cmまで取水可能な第二疏水連絡トンネルが開通したため、ポンプ稼動の必要性がほぼなくなったとともに、渇水によるトラブルもほぼなくなったといえます。 当時の京都府知事、北垣国道や技術者の田辺朔郎らの尽力によって明治23年(1890)に開通しました。琵琶湖に面する取水口付近から第一トンネルまでのこの水路沿いには、春には桜が咲きほこります。
明治18年(1885)に着工し、5年の歳月をかけて完成しました。工事の責任者となったのは、東京の工部大学校を卒業したばかりの若き技術者、田辺朔郎です。日本初の竪坑を利用した工法で建設され、一時は完成を危ぶまれましたが、ほぼ人力だけで工事されました。長さ2436m。
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琵琶湖疏水取水口
第ニ疏水取水口1
136-5
琵琶湖疏水取水口
第ニ疏水取水口2
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掛川城
掛川城1
137-2
掛川城
大手門
滋賀県大津市 滋賀県大津市 静岡県掛川市 静岡県掛川市
明治41年着工、明治45年完成。第一疏水のみでは電力供給が追いつかず、さらに地下水に頼っていた京都市民の水道事情を改善させるため、西郷菊次郎市長(西郷隆盛の子)が京都市の三大事業(第二疏水、水道、市電)の中核事業と位置づけて行いました。蹴上付近で第一疏水と合流しています。完成に伴って、急速ろ過方式の蹴上浄水場が操業を開始し、京都の水道事業は大きく改善されました。
第二疏水は、取水された後すぐに暗渠となっており、地上からは見ることができません。水路は総延長7.4キロになります。水道水源として、汚染を防ぐため、全線が掘り抜きトンネルまたは鉄筋コンクリートの埋め立てトンネルとなっています。 戦国大名今川氏の重臣、朝比奈泰熙が築城したのが始まりです。その後は徳川氏の領地の一部となっていましたが、家康が関東に転封されると、山内一豊が入城しました。江戸時代以降は城主が頻繁に入れ替わり、11家26代の後、明治維新を迎えました。 間口が12.7m、奥行きが5.4m、高さ11.6m。楼門造りの櫓門です。平成7年(1995)に掛川城天守閣に続いて復元されました。正保絵図によると、当時は、現在の位置から南へ50mほどのところにあったと推定されています。この位置から天守閣を見るのが一番美しいとされています。
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掛川城
大手門番所
137-4
掛川城
太鼓櫓
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掛川城
三日月堀
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掛川城
正保絵図
静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市 静岡県掛川市
江戸時代末期、城内に出入りする者を監視する役人の詰所でした。大手門の内側に建てられていました。大手門の復元に伴い、当時とは違った場所へ移築されましたが、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊した後の安政6年(1859)に再建され、現在に至っています。明治維新の廃城の際に、藩士だった、谷庄右衛門が居宅用として譲り受けていましたが、昭和53年(1978)に谷家より、掛川市へ寄贈されました。
正保絵図によると、この位置には荒和布櫓(あらぬやぐら)とよばれる櫓が建っていました。太鼓櫓とは、城下に時を知らせる太鼓(報刻の太鼓)が置いてあったことから名づけられたものです。嘉永7年(1854)の大地震の際に倒壊し、その後再建されたものです。何ヶ所か移築されましたが昭和30年(1955)に三之丸から移築されて現在に至っています。
本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mほど。南側には石垣が見つかりました。さらに、その下からは柱穴が並んで見つかりました。 正保元年(1644)、幕府が全国の城郭管理の一環として諸大名に城絵図の提出を命じました。これが、正保城絵図(正保絵図)と呼ばれているものです。現在、63カ城の絵図が現存しています。堀の幅・深さ、土塁の高さ、石垣の高さ、櫓・塀の状況、城下町の町割り、街道など軍事に関わる施設が詳細に描かれています。実際と少しでも違っただけで、その大名が所領没収や改易などの厳しい処分がなされたため、当時の姿が極めて正確に描かれているものと考えられます。掛川城の整備において、発掘調査とともに、重要な資料とされました。
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