写真で見る日本の歴史
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吉野ヶ里遺跡
東祭殿
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吉野ヶ里遺跡
斎堂
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吉野ヶ里遺跡
北内郭竪穴住居
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吉野ヶ里遺跡
高床住居
佐賀県神埼市 佐賀県神埼市 佐賀県神埼市 佐賀県神埼市
夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ線上に建っています。そのため、季節ごとのまつりの儀式が行われていた施設と考えられています。また、何度も建てかえられた跡があったことから、儀式のたびに建てかえられていたのではないかとも考えられています。
まつりの時に身を清めたり、祭りの儀式に使う道具などが置かれていた施設であると考えられています。 北内郭で唯一の竪穴住居です。最高司祭者の身辺の世話をする従者の住まいであったと考えられています。 高床倉庫と違って、ほぼ正方形に近い形をしていることから、最高司祭者の住居だったのではないかと考えられています。
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吉野ヶ里遺跡
北内郭の環濠
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郡上八幡城

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郡上八幡城
石垣の遺構
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郡上八幡城
首洗い井戸跡
佐賀県神埼市 岐阜県郡上市 岐阜県郡上市 岐阜県郡上市
北内郭を囲む環壕の跡です。弥生時代の前期から環壕が発達していた吉野ヶ里では、幅が約6m、深さ3m以上という大規模な環壕に囲まれていたところもあったと考えられています。
永禄2年(1559)に遠藤盛数によって築城された山城で、別名を積翠城といいます。四層五階建ての天守閣は、昭和8年(1933)の再建で、再建された木造天守閣としては、日本最古です。
昭和30年(1955)8月30日、天守閣周辺の石垣の遺構が岐阜県の指定史跡になりました。
この一帯は駐車場として利用されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で案内板の立っているこの付近に一基の浅井戸が潰されていました。この井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、慶長の合戦に際して討ち取られた武士の首についた血や泥を、首実検のために洗い清めるために使用されたそうです。
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郡上八幡城
力石
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郡上八幡城
お助けの松
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郡上八幡城
つけやぐら
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郡上八幡城
天守入口
岐阜県郡上市 岐阜県郡上市 岐阜県郡上市 岐阜県郡上市
この二つの石は、寛文7年(1667)に城主、遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めた時、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものといわれています。奉行の村上貞右衛門がその力量の優れているのを見て、賞賛すると、彼は感涙してたちまち力尽きてその場で卒倒して息絶えてしまいました。昭和8年(1933)に天守閣を再建した際に、草むらの中からこの石が発見され、碑として安置されることになりました。
明治維新の改革により城が壊された代償として、海岸産(三河方面)の黒松が多く植えられたといわれています。この松は樹高が20m以上あったといわれていますが、平成7年(1995)に落雷によって枯れてしまいました。お城や売店に落雷することなく、身代わりとして落雷を受けたということで、「お助けの松」ということです。 天守閣とともに再建されました。
永禄2年(1559)遠藤盛数が山上に砦を築いたのが、この城のはじまりといわれています。以降、稲葉氏、井上氏、金森氏を経て青山氏の時に明治維新を迎えました。天守台には天守閣が隅櫓や高塀とともに再建され、現在にいたっています。
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郡上八幡城
天守閣
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郡上八幡城
郡上八幡の町並み
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郡上八幡城
道ハ一筋ナリ
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郡上八幡城
凌霜の森
岐阜県郡上市 岐阜県郡上市 岐阜県郡上市 岐阜県郡上市
昭和8年(1933)10月に再建されました。再建の木造天守閣としては、最も古いものです。昭和30年(1955)に、岐阜県の指定史跡になりました。四層五階で、高さは17.18mです。
天守から撮影しました。美しい町並みで、魚の形に見えるとのことです。
凌霜隊についての碑文がありました。凌霜隊は、戊辰戦争の時、江戸に在番していた郡上藩士45名で結成された組織で、徳川家の恩顧に報いるため、会津若松での戦いの救済を決意しました。凌霜隊は、弱冠17歳の朝比奈茂吉を隊長に脱藩して旧幕府軍と合流するため会津を目指しました。
凌霜隊は、会津へ向かう途中、激しい戦闘を繰り返しましたが、会津へ到着し、あの白虎隊とともに西出丸を守りました。戦闘に負けた後は、降伏して郡上へ戻されることになりました。しかし、江戸から乗り込んだ船が難破するなど不幸に見舞われました。郡上へ帰還した後も、藩では脱走者として謹慎を命じられ、収監されました。明治3年にようやく謹慎を許されましたが、結局、戦死者や行方不明者を除き35名になっていました。
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郡上八幡城
一豊と千代
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建仁寺

134-2
建仁寺
勅使門
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建仁寺
三門
岐阜県郡上市 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
山内一豊とその妻、千代の銅像です。諸説ありますが、この郡上八幡は千代の故郷といわれている場所のひとつです。この銅像は、千代が化粧料として大切にしていたお金で一豊に馬を買ったという有名なエピソードの場面をあらわしています。 山号は東山。臨済宗建仁寺派大本山。本尊は釈迦如来座像です。建仁2年(1202)の創建で、当時の年号から名づけられました。開基は臨済宗を創始した栄西禅師、開山は鎌倉幕府二代将軍の源頼家です。室町時代の最盛期には60あまりの塔頭を擁する大寺院でした。応仁の乱などの戦火を受けて衰退しましたが、その後復興して、二万二千坪の敷地と14の塔頭を擁する大寺院として現在に至っています。 柱や扉には、矢が刺さった跡などがあることから「矢の根門」「矢立門」などの別名があります。平重盛(清盛の嫡子)の屋敷であった六波羅邸の門を移築したものといわれています。屋根は銅板葺きです。
京都御所をのぞむ楼門という意味で「望闕楼」(ぼうけつろう)といいます。
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