写真で見る日本の歴史
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東福寺
庫裡
145-1
東福寺
方丈
145-2
東福寺
方丈表門
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東福寺
方丈南庭1
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
明治14年(1881)に火災で焼失しましたが、明治42年(1909)に再建されました。切妻屋根の建物で禅宗寺院には共通してみられる建築様式です。
東福寺の方丈は、その四方にある庭園が有名です。「八相の庭」として日本のみならず、世界に向けて紹介されています。それぞれの庭は、様々な意匠を凝らしており、大変美しいです。昭和14年(1939)に重森三玲氏が作庭しました。建物自体は、明治23年(1890)に再建されました。
唐破風の門で、恩賜門ともいいます。明治期の建築です。
正面の門は方丈表門(恩賜門)です。
145-4
東福寺
方丈南庭2
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東福寺
方丈西庭
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東福寺
方丈北庭
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東福寺
臥雲橋
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
方丈南庭は前庭として、方丈庭園の中でも最も有名な庭です。巨石十八尺の長石を基本とした剛健は配石と荒海の砂紋とによる躍動を表現しています。向かって右側は五山が築山として表現されています。210坪の広さがあります。枯山水式庭園。
井田市松の庭といわれています。さつきの刈りこみで市松模様を表現しています。方丈庭園に限らず東福寺の庭園は市松模様が随所で見られます。くず石を方形に組んで、井田を表現しています。
裏庭にあたります。作庭以前に南庭の御下賜門内にあった敷石を利用して市松模様を表現しています。
通天橋と偃月橋とともに東福寺三名橋にかぞえられています。
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東福寺
偃月橋
146-3
東福寺
龍吟庵
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東福寺
龍吟庵西庭
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東福寺
開山堂
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
塔頭の龍吟庵に通じる三ノ橋渓谷に架かっています。木造の単層切妻造の屋根です。桁行は十一間。東福寺三名橋のひとつです。重文。
東福寺塔頭の龍吟庵は正応4年(1291)につくられました。国宝の方丈を中心に東西南の三方に庭園があります。南庭は、白砂を敷き詰めてあります。
龍吟庵の三つの庭のうち最も有名なのが、この西庭です。枯山水庭園で、龍の昇天を石組みで表しています。白砂と黒砂で雲紋を表しており、周りを囲む竹垣は稲妻模様をしています。
別名を常楽庵といいます。文政2年(1819)に焼失しましたが、直後の文政6年(1823)に一条忠良によって再建されました。
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東福寺
開山堂庭園の市松模様
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宇治十帖モニュメント
147-2
宇治十帖モニュメント
源氏物語宇治十帖
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宇治十帖モニュメント
匂宮と浮舟
京都府京都市東山区 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
開山堂の参道は右手が池泉鑑賞式庭園、反対側が市松の砂紋をつけた枯山水の庭になります。広さは約100坪あり、開山堂の隣の普門院の前庭も兼ねています。
弟51帖の一場面、匂宮が浮舟を誘って宇治川へと舟で漕ぎ出す場面をモニュメントにしてあります。宇治十帖の中でも有名な場面のひとつです。
宇治十帖の主な登場人物は三人です。光源氏(実は「柏木」なる人物)と女三の宮との間に生まれた「薫」、光源氏の孫、明石中宮と今上帝の子にあたる「匂宮」、そしてヒロインの「浮舟」です。この三角関係が話の筋です。
薫は生まれつき体からほのかな香りを漂わせる体質だったとか。宇治十帖の主人公たちは「薫」「匂」などと”におい”に関係した名前が付けられています。薫がいわゆるまじめな青年!?だったのと対照的に、匂宮は社交的で光源氏と同じプレイボーイとして描かれている気がします。浮舟は、薫といい仲だったのですが、そんな明るい匂宮に段々と惹かれていくのです。
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宇治十帖モニュメント
朝霧橋
148-1
歴史人物
柴田勝家
148-2
歴史人物
お市の方
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歴史人物
山内一豊
京都府宇治市 福井県福井市 福井県福井市 岐阜県郡上市
宇治十帖モニュメントの後にある橋です。朝霧橋を渡ると、匂宮と浮舟が舟で漕ぎ出して立ち寄ったとされる橘の小島があります。橘の小島には、源義経軍と木曽義仲軍が戦った宇治川の戦いの時に、梶原源太景季と佐々木四郎高綱が先陣を争ったことを記念する宇治川先陣の碑もあります。
はじめは織田信長の弟、信行とともに信長と対立しますが、その後、信長に仕えるようになりました。勝家は「鬼柴田」と戦場では恐れられる猛将でした。あの織田信長が家老に据えるほど人物ですので、相当の人物だったと思います。本能寺の変の後の清洲会議では、策を弄した秀吉に織田家の主導権を握られて、その後対立。秀吉との戦に敗れ、最後には居城の北ノ庄城で、妻のお市の方とともに自害しました。
織田信長の妹で、絶世の美女だったといわれています。はじめは北近江の大名、浅井長政に嫁ぎました。政略結婚だったとはいえ、夫婦仲は睦まじかったようで、ニ男三女をもうけました。しかし、長政は兄の信長と対立し、最後には浅井家は、居城の小谷城を攻められて滅亡してしまいます。本能寺の変の後、信長の筆頭家老だった柴田勝家と再婚しますが、勝家も秀吉との戦いに敗れ、越前北ノ庄(現在の福井)で落城する城の中で自害しました。お市の方も勝家と運命をともにしました。
尾張国(愛知県)岩倉城主、織田信安の家老、山内盛豊の子として生まれました。13歳の時、父と兄を戦のため亡くし、以降、何人かの主君に仕えました。天正元年(1573)の頃、秀吉に仕え、そのもとで数々の武功をあげました。秀吉配下では、近江国(滋賀県)長浜城主(2万石)となりさらに遠江国(静岡県)掛川城主(5万石)まで出世しました。関ヶ原の戦いでは、東軍に味方し、その功により土佐24万石の国持ち大名となりました。
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