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2018-03-10 2018-03-10

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)

Yukichi FUKUZAWA:(1835 - 1901)

(幕末・明治の啓蒙思想家) 江戸時代末期、中津藩(大分県中津市)の藩士の子に生まれ、若くして適塾の塾長になるなど才能を発揮。幕府の遣米・遣欧使節に参加したり慶応義塾(後の慶應義塾大学)を設立したりしました。明治維新後は啓蒙思想家として活躍し、『学問のすすめ』などを刊行しました。

【基本データ】

名前 福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち)
生没年

天保5年12月12日 - 明治34年 2月3日

( Jan.10,1835 - Feb.3,1901 )

改名

中村諭吉

別名

福澤諭吉(ふくさわ ゆきち)

諱:範(はん)

字:子囲(しい)、子圍

雅号:三十一谷人

生誕地

中津藩蔵屋敷(摂津国大坂堂島浜)

現:大阪市北区堂島浜(玉江橋北詰)

中津藩蔵屋敷跡の碑とともに、「福澤諭吉誕生地」の碑がある

死没地

東京府三田

現:東京都港区三田

慶應義塾大学三田キャンパス内に「諭吉終焉の地」という石碑が設置されている

戒名 大観院独立自尊居士
官位  
墓所 麻布山善福寺

家族

(主な人物)

父:福澤百助(豊前国中津藩士)

母:於順

兄:三之助(漢学者)

養父・叔父:中村術平

妻:お錦(中津藩士、土岐太郎八の次女)

長男:一太郎(慶應義塾塾長)

次男:捨次郎(時事新報社長)

長女:里(阿三・お里)

次女:福澤房(阿房)

三女:俊(阿俊)

四女:滝(阿滝)

五女:光(阿光)

三男:三八

四男:大四郎

【生涯】

天保 5年(1835)

大坂の豊前国中津藩蔵屋敷(摂津国大坂堂島浜)で生まれる

天保 6年(1836)

1歳:父の死去を受け、中津へ帰国

安政元年(1854)

19歳:長崎へ遊学

安政 2年(1855)

20歳:大坂へ出て緒方洪庵の適塾で学ぶが、腸チフスを患い中津へ帰国

安政 3年(1856)

21歳:再び大坂の適塾で学び始める

安政 4年(1857)

22歳:適塾の塾頭となる

安政 5年(1858)

23歳:藩命より江戸へ。江戸中津藩邸の蘭学塾の講師となる(後の慶応義塾)

安政 6年(1859)

24歳:日米修好通商条約によって開港した横浜へ見物に出かける

万延元年(1860)

25歳:咸臨丸艦長、木村摂津守の従者として渡米、半年後に帰国

文久元年(1861)

26歳:中津藩士、土岐太郎八の次女、お錦と結婚

文久 2年(1862)

27歳:文久遣欧使節の一員として欧州歴訪

元治元年(1864) 29歳:外国奉行支配調役次席翻訳御用として幕府直参の家臣(旗本)となり、中津へ
慶応 2年(1866) 31歳:『西洋事情』の執筆活動を開始
慶応 3年(1867) 32歳:幕府の軍艦受取委員会随員として渡米、半年後に帰国
慶応 4年(1868) 33歳:自らの蘭学塾を慶応義塾に改称
明治 5年(1872) 37歳:代表作『学問のすすめ』初版刊行
明治 6年(1873) 38歳:明六社の設立に参加
明治15年(1882) 47歳:時事新報(戦前の五大新聞のひとつ)を発刊する
明治31年(1898) 63歳:脳溢血で倒れる
明治34年(1901) 66歳:脳溢血が再発、同年2月3日に東京で死去

 

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福沢諭吉像

福沢諭吉旧居@大分県中津市

福澤諭吉旧居にある胸像

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