岡山城 Okayama Castle
「天守閣背後に旭川や後楽園をひかえた後堅固の城」
豊臣秀吉子飼いの武将、宇喜多秀家が築城しました。関ヶ原の戦いの敗戦で秀家が八丈島へ流された後は、小早川秀秋が入城。秀秋の死後は池田氏15代の居城でした。
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 岡山城事務所 岡山県岡山市北区丸の内2-3-1 |
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交通 | |
公式サイト Official Site |
別名 | 烏城、金烏城 |
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城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守 | 外観復元天守 複合式望楼型 3重3階地下1階(1597年築) RC造外観復元(1966年) |
築城主 | |
築城年 | 1346-69年 |
主な改修者 | 宇喜多秀家 |
主な城主 | 宇喜多氏 小早川氏 池田氏 |
文化財指定等 | 【重要文化財(建造物) 】 【その他】
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撮影日
2011-03-28
2002-08-13
[ 岡山城 ]
後楽園側から旭川を渡る途中から撮影しました。この橋は、月見橋といいます。このように、後楽園に面する側は旭川を背にしています。兵法いう「後堅固の城」です。
[ 廊下門 ]
表書院から本段に渡してある廊下橋の下にある門なので、廊下門とよばれています。この門は、鉄筋コンクリート造りで、昭和41年に再建されました。
[ 月見櫓 ]
国の重要文化財に指定されています。三層ではありますが、二階建ての隅櫓です。地階は貯蔵庫となっています。外側からは、千鳥破風や石落としが見られます。1620年代の建築と伝えられています。
[ 表書院跡 ]
この場所には藩主の政庁、また外来のお客を接待するための表書院がありました。室数65、畳数850という壮大な建物があったということです。
[ 不明門 ]
表書院から本段(藩主の館)に通じる石段の入口にあった門です。平素の移動は、渡り廊下を利用していたということで、この門はほとんど使用されていなかったことから、このような名がつけられました。昭和41年、鉄筋コンクリート造りで再建されました。
[ 六十一雁木上門 ]
この門は、本段から川手へ降りていく石段への出口に設けられたもので、段数が61あることからこの名がつけられました。
[ 天守閣 ]
戦後の再建ではありますが、外観は当時を忠実に再現してあります。あの織田信長の安土城を模して造られたという天守閣は、安土城同様に不等辺五角形の天守台にそびえています。昭和41年竣工。
[ 内目安橋 ]
大手門前、内堀に架かる橋です。かつては、この橋のたもとに目安箱(投書箱)が設置されていたので、このような名前がつきました。
[ 内堀 ]
岡山城の内堀です。現在でも水をたたえています。尚、外堀は旭川を利用した自然のものです。但し、築城に際して流路は変えています。隣接する後楽園は、その旭川の中洲に造られています。
[ 大手門跡 ]
岡山城の正門だったところです。内目安門ともよばれていました。写真のように枡形(城の防備のため、入口の石垣を屈曲してつくり、二重に門を設けたつくり)になっており、入口の高麗門と西奥の櫓門のふたつからなっていました。
[ 鉄門跡 ]
ここにあった櫓門は、木部の全体を鉄板でおおった門でした。よって、このような名前が付けられています。
[ 天守台の石垣 ]
岡山城の天守台の石垣は、このように野面積みです。一見粗雑に見えますが、逆にそれが荒々しさを兼ねた荘重なつくりに見えます。昭和20年(1945)6月29日の空襲によって、天守閣が焼失した際、天守台の石も赤く変色してしまいました。その後再建されて現在に至っているのですが、現在も焼けて変色した石が多く見られます。
[ 天守閣の礎石 ]
天守閣は江戸時代から存続し続けましたが、昭和20年(1945)の戦災で惜しくも焼失しました。その後、昭和41年(1966)に再建されましたが、鉄筋コンクリート造りになったので、もとあった礎石をこの位置(天守閣前、本殿の一区画)に元通りに配置して並べてあります。
[ 天守閣 ]
野面積みの石垣を持つ天守台は、北に大きく突き出た不等辺五角形をしており、全国的にも珍しいつくりとなっています。その上にそびえる天守閣は、あの織田信長の安土城を模して造られたといわれるもので、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階となっています。外観は下見板が黒いため、全体的に黒めで、烏城(烏とはカラスのこと)とよばれています。昭和6年には国宝に指定されましたが、昭和20年の空襲によって惜しくも焼失しました。昭和41年に再建されましたが、外観は建築基準の問題で出入り口を二箇所設けた以外は、築城当時と変わりません。