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大村公園 |
角堀跡 |
新蔵波止 |
貝吹石 |
現在の玖島城の眺めです。慶長19年(1614)の改築の際に、加藤清正の助言もあって、扇の勾配の石垣が造られ、その上に二層の櫓がつくられました。現在再建されている板敷櫓がそれです。写真は、櫓から撮影しました。玖島城跡は、大村出身の近代公園づくりの先駆者、長岡安平(1842〜1925)によって大村公園として造園され、現在に至っています。桜やツツジ、花しょうぶなどが咲き誇る花の公園として市民に親しまれています。
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慶長19年(1614)に玖島城の大手口を本小路口に改修した時に造られたもので、黒石原とよばれた昔の海の跡です。現在は、桜田の堀とよばれています。
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大村公園(玖島城跡)の裏手にある米などの荷揚げに使用するために築かれた船蔵です。玖島城は三方を海で囲まれた海城で、このような珍しい遺構が残っています。近くには、県指定史跡のお船蔵跡もあります。
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大小二つの穴があります。小さな方を吹くとほら貝を吹いたような音が出ることから貝吹石(ほら石)という名がつけられています。天正年間に肥前の大名、竜造寺隆信が萱瀬村(現、長崎県大村市)に攻めてきた時に、大村純忠の命を受け、砦に立てこもって合図の陣具にこの石を代用して戦いに勝利したという言い伝えがあります。
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梶山御殿跡 |
大手門跡 |
虎口門跡 |
搦手門跡 |
江戸時代後期、藩主の大村純昌の時に大村家の別邸として建てられたといわれています。明治維新後は、大村男爵家の住まいとなっていましたが、昭和38年に県の施設、平成2年には大村市の施設になりました。現在は「大村市教育の館」という教育施設として使用されています。
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お城の正門に当たるのが大手門です。玖島城の大手門には、上部に渡櫓があり、また厳重な扉で守られていました。大手門の前には当時、土橋が架けられていました。
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虎口とは本丸の正門に当たります。玖島城の虎口門には左側に櫓、右側に塀、そして石段を登ったところに番所がありました。
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慶長4年(1599)の築城の際には大手門でしたが、慶長19年(1614)の改築の際に搦手門になりました。搦手とは裏口の事です。
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大村純煕 |
浜田謹吾 |
文政13年(1830)〜明治15年(1882)大村純昌の八男として生まれ、兄の藩主、純顕の養嗣子となり後に家督を継ぎました。大村藩の藩校、五教館の学頭に松林飯山を据え、江戸から剣客、斉藤勘之助を招くなど学問の奨励に寄与しました。長崎総奉行を勤めた後、明治維新で大村藩知事となりました。
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大村藩士浜田弥兵衛重義の長男。大村藩の藩校五教館で学びました。戊辰戦争で二番隊鼓手として従軍し、刈和野の戦いにおいて、敵弾に当たり戦死しました。
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板敷櫓 |
大手門から海側へとつながる石垣のうち、この板敷櫓の石垣は熊本城や名古屋城の天守台に見られるような「反り」が見られます。扇の勾配と呼ばれるこの「反り」は築城の名人で熊本城の築城者で知られる加藤清正が慶長19年(1614)の改築の際に助言して造られたものといわれています。長らく、櫓台のみでしたが、板敷櫓が再建され、玖島城のシンボルとなっています。
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