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大手門 |
大手門番所 |
太鼓櫓 |
三日月堀 |
間口が12.7m、奥行きが5.4m、高さ11.6m。楼門造りの櫓門です。平成7年(1995)に掛川城天守閣に続いて復元されました。正保絵図によると、当時は、現在の位置から南へ50mほどのところにあったと推定されています。この位置から天守閣を見るのが一番美しいとされています。 |
江戸時代末期、城内に出入りする者を監視する役人の詰所でした。大手門の内側に建てられていました。大手門の復元に伴い、当時とは違った場所へ移築されましたが、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊した後の安政6年(1859)に再建され、現在に至っています。明治維新の廃城の際に、藩士だった、谷庄右衛門が居宅用として譲り受けていましたが、昭和53年(1978)に谷家より、掛川市へ寄贈されました。
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正保絵図によると、この位置には荒和布櫓(あらぬやぐら)とよばれる櫓が建っていました。太鼓櫓とは、城下に時を知らせる太鼓(報刻の太鼓)が置いてあったことから名づけられたものです。嘉永7年(1854)の大地震の際に倒壊し、その後再建されたものです。何ヶ所か移築されましたが昭和30年(1955)に三之丸から移築されて現在に至っています。
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本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mほど。南側には石垣が見つかりました。さらに、その下からは柱穴が並んで見つかりました。
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四足門 |
腰櫓台跡 |
霧吹き井戸 |
十露盤堀 |
発掘調査では門の跡は見つかりませんでしたが、正保絵図を元に復元された門です。本丸入口にある重要な門です。 |
腰櫓があったとされている場所です。発掘調査で腰櫓へ登る石段が見つかりました。 |
天守丸という郭にあります。山内一豊が入城して城域が拡張されるまでは本丸として利用されていたところです。この井戸は「霧吹き井戸」といわれています。永禄12年(1569)に今川氏真(桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の子)の籠城する掛川城を徳川家康が攻めてきた時に、この井戸から霧が立ち込めて城を包み、攻撃から守ったという伝説があります。 |
天守を囲む堀です。由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来ともいわれています。 |
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正保絵図 |
主要部模型 |
正保元年(1644)、幕府が全国の城郭管理の一環として諸大名に城絵図の提出を命じました。これが、正保城絵図(正保絵図)と呼ばれているものです。現在、63カ城の絵図が現存しています。堀の幅・深さ、土塁の高さ、石垣の高さ、櫓・塀の状況、城下町の町割り、街道など軍事に関わる施設が詳細に描かれています。実際と少しでも違っただけで、その大名が所領没収や改易などの厳しい処分がなされたため、当時の姿が極めて正確に描かれているものと考えられます。掛川城の整備において、発掘調査とともに、重要な資料とされました。 |
屋外に展示されています。屋外の自然条件下でも耐久性に優れているとされている有田製陶磁が用いられています。正保元年(1644)に幕府が諸大名に提出させた正保絵図をもとに、150分の1の縮尺で再現されています。 |
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掛川城御殿 |
御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。掛川城の御殿は文久元年(1861)に再建されたものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などとして利用されていました。国指定重要文化財。 |
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