山内一豊とその妻、千代の銅像です。諸説ありますが、この郡上八幡は千代の故郷といわれている場所のひとつです。この銅像は、千代が化粧料として大切にしていたお金で一豊に馬を買ったという有名なエピソードの場面をあらわしています。 |
昭和30年(1955)8月30日、天守閣周辺の石垣の遺構が岐阜県の指定史跡になりました。 |
この一帯は駐車場として利用されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で案内板の立っているこの付近に一基の浅井戸が潰されていました。この井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、慶長の合戦に際して討ち取られた武士の首についた血や泥を、首実検のために洗い清めるために使用されたそうです。
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この二つの石は、寛文7年(1667)に城主、遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めた時、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものといわれています。奉行の村上貞右衛門がその力量の優れているのを見て、賞賛すると、彼は感涙してたちまち力尽きてその場で卒倒して息絶えてしまいました。昭和8年(1933)に天守閣を再建した際に、草むらの中からこの石が発見され、碑として安置されることになりました。
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明治維新の改革により城が壊された代償として、海岸産(三河方面)の黒松が多く植えられたといわれています。この松は樹高が20m以上あったといわれていますが、平成7年(1995)に落雷によって枯れてしまいました。お城や売店に落雷することなく、身代わりとして落雷を受けたということで、「お助けの松」ということです。 |
つけ櫓。天守閣とともに再建されました。 |
凌霜隊についての碑文がありました。凌霜隊は、戊辰戦争の時、江戸に在番していた郡上藩士45名で結成された組織で、徳川家の恩顧に報いるため、会津若松での戦いの救済を決意しました。凌霜隊は、弱冠17歳の朝比奈茂吉を隊長に脱藩して旧幕府軍と合流するため会津を目指しました。 |
凌霜隊は、会津へ向かう途中、激しい戦闘を繰り返しましたが、会津へ到着し、あの白虎隊とともに西出丸を守りました。戦闘に負けた後は、降伏して郡上へ戻されることになりました。しかし、江戸から乗り込んだ船が難破するなど不幸に見舞われました。郡上へ帰還した後も、藩では脱走者として謹慎を命じられ、収監されました。明治3年にようやく謹慎を許されましたが、結局、戦死者や行方不明者を除き35名になっていました。 |