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お城シリーズ

熊本城
所 在 地 熊本県熊本市本丸1番1号
城の種別 平山城
別  名 銀杏城
築 城 者 加藤清正
歴代城主 加藤氏 → 細川氏
築 城 年 慶長6年(1601)
交  通 JR熊本駅または上熊本駅下車
熊本交通センターからは徒歩5分
コメント 加藤清正築城のお城、日本三名城のひとつで49もの櫓がありました。その中には、宇土櫓や飯田丸五階櫓など他の城では天守閣級の大きさのものもあります。これだけ規模の大きいお城が地方にあるのは珍しいといえるでしょう。
外部リンク
熊本城公式ホームページ 熊本市が運営。
探検!くまもと城 クイズゲーム「めざせ天守閣」ほか。
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歴史年表
1467年〜
1469年ころ

(応仁年間)出田秀信(菊池氏家臣)が現在の熊本城がある茶臼山に千葉城を築城。その後、肥後や九州一帯の豪族(大友氏・島津氏・竜造寺氏)などが支配する。

1587年

(天正15年)秀吉が九州を平定した後、越中から佐々成政が入城。

1588年

(天正16年)領内での一揆の責任を取り、切腹させられた佐々成政の後、肥後半国19万5000石で加藤清正が入城。

1601年 (慶長6年)関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の旧領をあわせて肥後一国を支配することになった加藤清正が熊本城の築城を開始。
1607年 (慶長12年)熊本城完成。城名を隈本から熊本に改める。
1632年 (寛永9年)加藤氏改易。代わりに細川氏が入城。以降、細川氏の支配の下、明治維新を迎える。
1877年 (明治10年)西南戦争勃発。政府軍が籠城していた時、失火?によって天守閣その他の建物が焼失。
1960年 (昭和35年)天守閣が再建される。
天守閣
連立式天守(鉄筋コンクリート造3層6階地下1階)
昭和35(1960)再建
熊本城は大小2つの天守からなります。そのうち、大天守は外観3層内部6階地下1階です。現在の天守閣は昭和期のものですが、古写真などをもとにして外観は築城当時のまま復元されています。特徴的なのは初層部分が石垣からはみ出していることです。有事の際は、床板をとって、全面が石落としになる役割も果たしていました。また、天守閣のみの籠城も想定され、井戸も備え付けられていました。
【熊本城の石垣】   加藤流ともよばれる石垣が熊本城の見所のひとつです。
加藤清正は秀吉のもとで幾多の実戦経験があり、その経験に基づいて熊本城が築かれました。清正が携わった城郭は、立派な石垣が築かれていることが特徴で、熊本城も美しい曲線の高石垣が見られます。坪井川の西方の山々から切り出されて運ばれました。熊本石とよばれる安山岩質の石を使用しています。清正をはじめ、普請奉行の飯田覚兵衛、三宅角左衛門の指導の下、石垣づくりの石工技術者集団、近江の穴太衆が担当してつくりました。 武者返しと呼ばれる石垣の形です。上に行くほど傾斜が急になっています。防御にすぐれた形で、清正が携わった城には多く見られます。清正流ともいわれたつみ方で、実際は近江の石工集団の穴太衆が建築に携わりました。熊本城の石垣はこのように美しく圧倒的で、お城に興味がない人でも十分に堪能できると思います。 ここの石組みは城のほかの部分と異なり、切り石の組み合わせでできています。古くは、日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものといわれていましたので、現在も地図石とよばれています。今日では数奇屋丸お茶室への参入口の装飾であったと考えられています。 右手は築城当初の加藤時代のもので、後に細川氏の時代に増築されたのが左手です。時代が異なる二つの石垣が同時に見られます。
【首掛石】 【熊本城模型】
天正17年(1589)に熊本の天草で仏木坂の戦いがおこりました。その時、加藤清正や小西行長らと敵対した武将に木山城主の木山弾正がいました。弾正は、豪勇をもってきこえた武将で、戦いの時に単騎で敵中奥深くに入り、清正の首を取る寸前までいきましたが、あえなく討死しました。この弾正の遺児に怪力で名の知れた横手の五郎なる人物がいましたが、この五郎は父の仇を取ろうと熊本城の築城の際、人夫にまぎれてその機会をうかがっていました。その時、数人がかりでも運べなかった石を首に掛けて軽々と運んだのがこの石です。ある日、清正を襲った五郎でしたが、家来たちに取り押さえられ、古井戸に投げ込まれてしまいました。清正の命令で石が井戸の中に次々に投げ込まれましたが、怪力の五郎は片手で受け止めるので、今度は砂が入れられて、ついに生き埋めになって死んだと伝えられています。


城郭の模型です。天守閣内の資料館にありました。日本三名城の熊本城は、城郭の広さが約98万平方メートル、周囲は5.3キロメートルもありました。その中には大小天守の他、櫓49、櫓門18、城門29を数えました。明治10年(1877)の西南戦争の際に城内から起こった失火によってほとんどが焼失しましたが、宇土櫓ほか12棟が焼失を免れ、国指定重要文化財となっています。

【宇土櫓】
小天守閣や大天守閣と違って破風が直線的であり、外観などの造りが違うことから、小西行長が築城した宇土城の天守閣を移築したものと考えられ、宇土櫓といわれていました。しかし、解体修理時の調査の時に、熊本城内で創建された櫓ということが分かりました。櫓とはいえ、外観は三層、内部は五階建てで地下もあります。このようなことから、第三の天守の役割を果たしています。天守群の建物と違い、江戸時代から残っており、重要文化財に指定されています。
0318伊賀上野城 0320郡上八幡城
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