【熊本城の石垣】 加藤流ともよばれる石垣が熊本城の見所のひとつです。 |
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加藤清正は秀吉のもとで幾多の実戦経験があり、その経験に基づいて熊本城が築かれました。清正が携わった城郭は、立派な石垣が築かれていることが特徴で、熊本城も美しい曲線の高石垣が見られます。坪井川の西方の山々から切り出されて運ばれました。熊本石とよばれる安山岩質の石を使用しています。清正をはじめ、普請奉行の飯田覚兵衛、三宅角左衛門の指導の下、石垣づくりの石工技術者集団、近江の穴太衆が担当してつくりました。 |
武者返しと呼ばれる石垣の形です。上に行くほど傾斜が急になっています。防御にすぐれた形で、清正が携わった城には多く見られます。清正流ともいわれたつみ方で、実際は近江の石工集団の穴太衆が建築に携わりました。熊本城の石垣はこのように美しく圧倒的で、お城に興味がない人でも十分に堪能できると思います。 |
ここの石組みは城のほかの部分と異なり、切り石の組み合わせでできています。古くは、日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものといわれていましたので、現在も地図石とよばれています。今日では数奇屋丸お茶室への参入口の装飾であったと考えられています。 |
右手は築城当初の加藤時代のもので、後に細川氏の時代に増築されたのが左手です。時代が異なる二つの石垣が同時に見られます。 |
【首掛石】 |
【熊本城模型】 |
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天正17年(1589)に熊本の天草で仏木坂の戦いがおこりました。その時、加藤清正や小西行長らと敵対した武将に木山城主の木山弾正がいました。弾正は、豪勇をもってきこえた武将で、戦いの時に単騎で敵中奥深くに入り、清正の首を取る寸前までいきましたが、あえなく討死しました。この弾正の遺児に怪力で名の知れた横手の五郎なる人物がいましたが、この五郎は父の仇を取ろうと熊本城の築城の際、人夫にまぎれてその機会をうかがっていました。その時、数人がかりでも運べなかった石を首に掛けて軽々と運んだのがこの石です。ある日、清正を襲った五郎でしたが、家来たちに取り押さえられ、古井戸に投げ込まれてしまいました。清正の命令で石が井戸の中に次々に投げ込まれましたが、怪力の五郎は片手で受け止めるので、今度は砂が入れられて、ついに生き埋めになって死んだと伝えられています。 |
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城郭の模型です。天守閣内の資料館にありました。日本三名城の熊本城は、城郭の広さが約98万平方メートル、周囲は5.3キロメートルもありました。その中には大小天守の他、櫓49、櫓門18、城門29を数えました。明治10年(1877)の西南戦争の際に城内から起こった失火によってほとんどが焼失しましたが、宇土櫓ほか12棟が焼失を免れ、国指定重要文化財となっています。 |
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【宇土櫓】 |
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小天守閣や大天守閣と違って破風が直線的であり、外観などの造りが違うことから、小西行長が築城した宇土城の天守閣を移築したものと考えられ、宇土櫓といわれていました。しかし、解体修理時の調査の時に、熊本城内で創建された櫓ということが分かりました。櫓とはいえ、外観は三層、内部は五階建てで地下もあります。このようなことから、第三の天守の役割を果たしています。天守群の建物と違い、江戸時代から残っており、重要文化財に指定されています。 |
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