写真で見る日本の歴史
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本能寺
徳川家重夫人の供養塔ほか
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本能寺
本能寺の変戦没者合祀供養搭
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手習
宇治十帖「手習」
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手習
手習之古蹟
京都府京都市中京区 京都府京都市中京区 京都府宇治市 京都府宇治市
一番奥から「島津義久夫人の石塔」、「菅中納言局庸子の石塔」、「徳川家重夫人の供養塔」となります。島津義久は、秀吉に降伏した戦国時代末期の大名です。 明智光秀が謀反を起こし、主君の織田信長を暗殺せしめたあの本能寺の変の時の戦没者の供養塔です。 「手習」は宇治十帖の9、源氏物語第53帖にあたります。
比叡山にいた横川の僧都は初瀬詣の帰りに急病で倒れた母尼を看護するために宇治に来ていました。その夜、宇治院の裏手で気を失って倒れている浮舟を見つけたのでした。浮舟は宇治川に入水したものの死にきれずにいたのです。助けた横川の僧都は、妹尼に介抱を頼み、洛北小野の里に連れてかえりました。浮舟は、そんな彼らに素性を明かそうとはせず、ついに出家してしまいました。浮舟生存の知らせは、都に上がった横川の僧都の口から明石中宮に伝えられ、さらに薫も知るところとなりました。
この「手習」の古蹟は、昭和になってからつくられたものです。府道京都宇治線沿いの歩道の一角にあります。写真手前方向が、宇治橋を経て京阪宇治駅に至り、奥の方に進むと、三室戸や黄檗(おうばく)方面になります。
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手習
「手習の杜」の碑
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手習
榎(えのき)の木
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夢浮橋
宇治十帖「夢浮橋」
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夢浮橋
夢浮橋案内板(新)
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
浮舟が手習をしたときに使ったと思わせる筆の形をしています。 梛(ナギ)の木(マキ科の常緑高木)と解説していたものもありましたが、宇治市のホームページによると榎(えのき、ニレ科の落葉高木)となっています。詳しくは分かりません。「手習いの杜」の全景です。杜というより、この大きな一本の木が植えられているところといった感じです。 「夢浮橋」は宇治十帖の10、源氏物語第54帖にあたります。
横川の僧都のもとを訪ね、話から入水自殺を図った女性が浮舟に違いないと確信した薫は、夢のような気持ちになります。その様子を見て、横川の僧都は浮舟を出家させたことを後悔するのでした。薫は、浮舟の異父弟の小君を使者として浮舟のもとを訪ねさせます。しかし、浮舟は「人違いでしょう」といって会ってくれず、小君はむなしく帰ってきました。小君からの知らせを聞いた薫は、自分がかつてやったように、「浮舟を誰かが隠しているのではないか」と考えるのでした。
夢浮橋の古跡にかかわらず、新しい案内板が設置されつつありました。
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夢浮橋
夢浮橋之古跡1
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夢浮橋
夢浮橋之古跡2
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夢浮橋
夢浮橋ひろば
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夢浮橋
紫式部像
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
他の場所にもある宇治十帖古跡を示す石碑です。夢浮橋は宇治十帖の最終、源氏物語の全54帖の最終帖にあたります。 こちらの石碑はすべての宇治十帖古跡にあったわけではなかったです。もともとはこの石碑と案内版だけしか設置されていませんでした。近年この「夢浮橋之古跡」は整備され、「夢浮橋ひろば」として多くの観光客が集まる憩いの場になりました。 宇治橋の西詰にある「夢浮橋ひろば」。平等院の表参道沿いにあることもあり、多くの人が訪れます。後ろに見えるのは宇治橋です。この一帯は、観光客の休憩所となっているだけでなく、宇治十帖「夢浮橋」の古跡を示す碑や「源氏物語」の作者、紫式部の像があります。 「源氏物語」の作者としてこれほどまでに有名な紫式部ですが、生没年はおろか、本名さえも諸説あり判然としません。いずれにせよ、2008年が「源氏物語1000年紀」だったことを考えると、平安時代中期、摂関政治の全盛期頃の人物といっていいと思います。
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夢浮橋
紫式部像(横顔)
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夢浮橋
宇治川
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夢浮橋
宇治橋
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東明山興福寺
山門
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 長崎県長崎市
宇治橋を背景に紫式部の横顔を。正面からでは分かりにくい十二単の細かいひだも表現されています。 琵琶湖を水源とする唯一の川です。滋賀県では瀬田川といいます。その後、京都に入ってからは宇治川、合流して桂川となった後、大阪府に入り淀川となり、大阪湾に注ぎます。源氏物語宇治十帖をはじめ、平家物語など、多くの文学や歴史の舞台となった川です。 夢浮橋ひろばからの宇治橋の様子です。もともとは646年に奈良元興寺の僧、道登(どうと)によって架けられた日本最古の橋といわれています。度重なる洪水や戦禍を乗り越えて何度も架け替えられた歴史があります。現在の宇治橋は、平成8年3月の完成です。 現存するこの山門は、元禄3年(1690)に再建されたものです。黄檗宗の祖、隠元の初登の地であるため、門の背面梁上には、隠元筆「初登宝地」の扁額がかかっています。三間三戸八脚門入母屋造。県指定有形文化財。
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東明山興福寺
斎藤茂吉歌碑
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東明山興福寺
鐘鼓楼
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東明山興福寺
大雄宝殿
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東明山興福寺
大雄宝殿横額
長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市
山形県上山市出身の斎藤茂吉は、大正6年(1917)からしばらく長崎医学専門学校(現、長崎大学医学部)の教授として長崎に住んでいた時期があります。おそらく、その時にのこしたと思われる歌碑がありました。ちなみに、長男は医学博士でエッセイストの斎藤茂太、次男は作家で医学博士の北杜夫です。北杜夫の子で、斎藤茂吉の孫にあたるのが作家の斎藤由香。 寛文年間におこった市中の大火でも一応焼け残りましたが、享保15年(1730)に位置を変えて再建されました。一階部分は禅堂として使用されていたそうです。県指定有形文化財。 市中の大火によって焼失した創建時の仏殿は、寛文7年(1667)に再建されました。しかし、これも慶応元年(1865)の暴風で大破したため、明治16年(1883)に新築されました。すべて中国技術者の手になる純中国建築です。「大雄宝殿」の横額は、もともとのものは隠元筆でしたが、現在のものは崇福寺のものの複製になっています。国指定重要文化財。 上の「大雄宝殿」の横額は、もともとは隠元筆のものが掲げられていましたが現存していません。現在のものは、崇福寺のものの複製です。「大雄」とは釈迦のことで、その釈迦を本尊としていることから名付けられています。
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