写真で見る日本の歴史
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249-3
名古屋城
不明門付近から天守
249-4
名古屋城
塩蔵構跡
249-5
名古屋城
天守閣礎石
249-6
名古屋城
本丸空堀
愛知県名古屋市中区 愛知県名古屋市中区 愛知県名古屋市中区 愛知県名古屋市中区
特に天守台の石垣が反り出ている「扇の勾配」が特徴的です。他には、熊本城などにみられる積み方ですが、これは熊本城を築城したことでも知られる加藤清正が担当していたからでです。「清正流三日月石垣」といわれています。 深井丸の東端に位置しています。築城以後無名の場所でしたが、寛文3年(1663)に塩を貯蔵する蔵が建てられたことから塩蔵構とよぶようになりました。 本丸から不明門を出た場所、東側に塩蔵構跡が位置するところに、天守閣の礎石が並べられています。再建された天守閣は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、石垣に負担を与えないつくりになっています。それ以前の創建時の天守閣はこれら礎石の上に柱が立てられてありました。 水掘りが多い中、空掘りになっているのが珍しい感じがします。規模はかなり大きい部類に入るのではと思います。両側にそびえる石垣がまた圧倒的です。写真左側のひときわ高くて反りがはいった石垣は天守台の石垣です。右側は深井丸になります。
249-7
名古屋城
乃木倉庫
249-8
名古屋城
西北隅櫓(裏側)
249-9
名古屋城
大天守閣3
250-1
インクライン
蹴上船溜
愛知県名古屋市中区 愛知県名古屋市中区 愛知県名古屋市中区 京都府京都市左京区
旧陸軍省の弾薬庫として使用されていたものです。名称の由来は、陸軍、乃木希典からとされていますが確証はありません。昭和20年(1945)5月14日に起きた名古屋空襲により天守閣、本丸御殿等は焼失してしまいましたが、この倉庫は焼失を免れました。本丸御殿内にあった障壁画の一部は、空襲が始まる前からここに避難させておいたので、焼失せず、現存しています。 西北隅櫓は別名を戌亥櫓ともいいます。三層三階、入母屋造、本瓦葺です。他のお城でいえば天守閣に匹敵する規模です。写真は内側からですが、他の櫓と違って、内側である東面、南面にも千鳥破風があります。外側には落狭間(石落とし)を設け、屋根を千鳥破風にして擬装しています。別名を清須櫓といいます。 手前に見えるのは、障害者、車椅子、ベビーカー用の屋外エレベータです。現在、天守閣の内部は7階建て(元々の天守閣は5階建て)になっており、最上階は展望室、その他の階は、名古屋城や名古屋城内、城下のくらしを展示するスペースになっています。 琵琶湖側から来るとこの蹴上の船溜で琵琶湖疏水の流れはいったんそれます。ここから下の南禅寺船溜までは582m、落差36mの急こう配になります。インクラインは現在は使用されていませんが、このように当時の様子が残されています。
250-2
インクライン
台車1
250-3
インクライン
水中滑車
250-4
インクライン
レール跡1
250-5
インクライン
レール跡2
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
レールが4本敷設されていて、ケーブルカーのように釣瓶の原理で二台の台車が上下していました。写真はそのうちの一台だったもので、蹴上の船溜に展示されています。また、台車の上には当時輸送に使用されていた船が載せてあります。 蹴上船溜の水中にあった滑車です。水平に設置されてワイヤー(直径約3cm)で二台の台車をささえていました。滑車の直径は3.2mあります。動力源ははじめ水力の予定でしたが、蹴上水力発電所の完成によって電力使用に設計変更されました。動力源のドラムは直径3.6mで、これを35馬力(25kw)の直流電動機で回転させてワイヤーを動かしていました。 頂上からインクライン跡を南禅寺船溜方面に見た写真です。この写真は夏に撮影したものですが、春には両側に桜が咲き誇り、桜のトンネルと化します。 軌間はとても広く、特殊なレールのようです。レールは、当初はイギリスから輸入されました。軌道中心には直径約60cmの縄受車が約9m間隔で設置されてあり、ワイヤーロープが地面にすれるのを防いでいました。
251-1
インクライン
台車2
251-2
インクライン
坂の途中に残る台車
251-3
インクライン
台車の車輪
251-4
インクライン
南禅寺前交差点下
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
インクラインの坂の途中にも、台車がひとつあります。三条通りから撮影しました。九条山、蹴上間の急こう配は、船での移動ができなかったため、この台車の上に30石船を載せて上下させていました。昭和48年(1973)に送水管を敷設するためにレールが一度撤去されましたが、その3年後、復元されて現在に至っています。 現在は使用されていませんが、昭和23年(1948)まで琵琶湖と京都を結ぶ舟運として活躍していました。このインクラインが完成したのは明治24年(1891)ですので、半世紀以上にわたって京都の発展に貢献してきたのが分かります。レール跡もこのように保存されています。 レールに固定されているものの、このように台車の車輪も確認することができます。 現在、インクライン跡の上部に、このように道路が通っている部分があります。南禅寺前交差点付近です。南禅寺船溜側から撮影しました。この付近には、琵琶湖疏水記念館の入り口もあり、その記念館内にはインクラインの模型も展示されています。
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インクライン
南禅寺船溜
252-1
インクライン
インクライン桜1
252-2
インクライン
インクライン桜2
252-3
インクライン
インクライン桜3
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
インクラインの麓側がこの南禅寺船溜です。正面は京都市動物園、その手前に見える噴水は、琵琶湖疏水の落差によって噴出しています。左側には、蹴上発電所で使用された水の排水口があります。 琵琶湖疏水関連施設のインクラインは、蹴上〜南禅寺を結ぶ傾斜鉄道のことです。昭和23年(1948)に廃止されましたが、現在では桜の名所となっており、桜のシーズンになると多くの観光客で賑わいます。 レール跡をそぞろ歩くたくさんの観光客。単に「インクライン」といえば、蹴上のインクラインを指すほど有名ですが、もともとこの施設は、蹴上と南禅寺の両方の船溜に到着した船が、旅客や貨物を乗せ替えることなく運行できるように考えられたものです。 琵琶湖疏水の中で、このインクラインのある付近は落差が大きかったため船で移動することができませんでした。そのため、台車に船を乗せて移動させていました。現在でも、二台の台車とレールが観光用に保存展示されています。
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