写真で見る日本の歴史
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252-4
インクライン
インクライン桜4
252-5
インクライン
インクライン桜5
253-1
車折神社
大鳥居
253-2
車折神社
第二鳥居
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
写真左手が三条通り側です。インクラインは京都の桜名所の中でも最も有名な場所のひとつといえます。また、インクラインは頂上の蹴上付近から南禅寺船溜まで全長582mもの長さがあり、レール上を移動しながら両側に咲き誇る桜のトンネルを歩いていけるようになっています。 インクラインのレール上、桜の花の間から見える蹴上浄水場の建物です。蹴上浄水場は三条通りを挟んでインクラインの反対側にあります。 「くるまざき」と読みます。祭神は平安時代の儒学者、清原頼業です。頼業は没後、清原氏の領地だったこの地に葬られました。その後、頼業の法名にちなんで宝寿院というお寺がありました。その後、ある貴人(後嵯峨天皇とも)が牛車でこの地を通りがかった時に牛車が倒れ、車が折れたという出来事にちなんで「車折神社」とよばれるようになりました。この大鳥居は、南側の参道入り口、三条通りに面して建っています 現在はこの第二鳥居は取り除かれ、その代りに社号柱があります。文字は、近代日本画家の巨匠、富岡鉄斎(車折神社元宮司)の筆によるものです。
253-3
車折神社
第三鳥居
253-4
車折神社
芸能神社
253-5
車折神社
中門
253-6
車折神社
渓仙桜1
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
大鳥居と同じく、屋根がついた鳥居です。この先、参道をまっすぐ歩くと中門になります。この奥右側に境内社の中でも最も有名な「芸能神社」があります。 車折神社の境内社のひとつです。祭神は芸能・芸術の祖神、天宇受売命(アメノウズメノミコト)です。天の岩戸の前で踊りを行い、それがきっかけで閉じこもっていた天照大神(アマテラスオオミカミ)が中から出てきたという話でも有名です。一枚一枚に芸能人の名前が書かれた朱塗りの玉垣によって境内が埋め尽くされているのが特徴的です。 中門はこのように特別な時をのぞいて閉ざされています。この中門から先は本堂になっていますが、真正面から神前へ進むことは神様に対して畏敬の念を欠く行為になるという考えから、一度迂回して進まなければならなくなっています。 画家、富田渓仙(1879 - 1936)が奉納した桜です。
253-7
車折神社
渓仙桜2
254-1
車折神社

254-2
車折神社
手水舎
254-3
車折神社
本殿前
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
芸能神社前の玉垣が奥に見えます。ピンホールカメラを構えている人が見えます。渓仙桜は見ごろになると見事に枝かしだれて、本殿までの参道が桜のトンネルのようになります。 後嵯峨天皇が牛車でこの地を通りがかった時に牛車が倒れ、車が折れたという出来事にちなんで「車折神社」とよばれるようになったといわれています。ただし、京都市が設置した案内板には、単に「ある貴人」としか書かれてありません。 本殿にお参りする前に手を水で清めるところです。 正面には、開かずの門「中門」が見えます。本殿から東西にのびる回廊に囲まれた空間には、枝垂梅、匂い桜、紅葉など折々に見どころがあります。特に、匂い桜はその名の通り、格別に良い匂いがするそうです。4月中旬ころが見ごろとの事です。
254-4
車折神社
拝殿
254-5
車折神社
本殿
254-6
車折神社
祈念神石
254-7
車折神社
社務所・参集殿
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
昭和63年(1988)の建立です。銅板葺き、総檜造。 拝殿の後ろにひっつくように本殿が建っています。神社は、だいたいこのようになっていて、本殿を正面から見るのは難しい造りになっているところが多いです。この本殿は、宝暦2年(1752)の建立です。入母屋造・銅板葺き、総檜造。 案内板には、「これらの石は、祈念神石によりお願い事が成就した方がお礼として奉納された石です。祈念神石は古来より信仰の続く、あらゆるお願い事・お悩み事に霊験あらたかな神石です。」とあります。 社務所では祈念神石のほか、お守り、絵馬などが手に入ります。右側の入口は、参集殿といって結婚式などに使用されるとの事です。
255-1
米沢城
二の丸
255-2
米沢城
松岬神社
255-3
米沢城
上杉鷹山公像(松岬神社)
255-4
米沢城
「伝国の辞」碑
山形県米沢市 山形県米沢市 山形県米沢市 山形県米沢市
JR米沢駅からは西へ大通りをまっすぐ。途中、松川にかかる相生橋を渡りますが、この付近はお寺が多いです。それらのお寺の古い墓石は万年塔型という形で、直江兼続が合戦の時に石塁に利用しやすいようにと考えたものです。さらに西に1キロほどで米沢城にたどり着きます。本丸にある上杉神社へと続くこの参道付近は、当時は二の丸だったところで、現在は、松岬神社、上杉記念館(旧上杉伯爵邸)、伝国の杜(上杉博物館)などの施設があります。 松岬神社(まつがさきじんじゃ)は明治35年(1902)に上杉神社の摂社として本丸の東、世子御殿跡に創建されました。祭神は、上杉景勝(米沢藩初代藩主)、直江兼続、上杉鷹山(治憲)、細井平洲、竹俣当綱、莅戸義政。 上杉鷹山(ようざん)公は、上杉家第10代当主です。儒学者細井平洲に師事し、17歳で藩主になりました。以降、さまざまな改革を行って困窮、崩壊寸前だった米沢藩を復興させた藩中興の祖です。凶作に備え、米の備蓄なども行っていたこともあり、天明の飢饉のときは、近隣の藩で多くの餓死者を出したにもかかわらず、米沢藩は一人として出なかったということです。ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領が尊敬する政治家として上杉鷹山を挙げたことは有名です。 上杉鷹山公が、11代上杉治広公に家督を譲った際に与えたものです。民主主義の原点ともとれる内容のものです。次の三カ条からなります。「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候」「一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候」「一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候」
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