写真で見る日本の歴史
 トップページすべての画像すべての画像066
件から1301-1320件を表示 U66 67 68 69 70U
前の20件 次の20件
235-1
仁和寺
宸殿南庭1
235-2
仁和寺
宸殿南庭2
235-3
仁和寺
霊明殿
235-4
仁和寺
宸殿北庭
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
宸殿の南北にはそれぞれ庭園があります。そのうち、この南側の庭の方が広く、このように白川砂が敷き詰められています。正面の門は、勅使門です。 勅使門とその奥に、二王門のおおきな屋根が見えます。南庭は、このほかにも白書院や平唐門と面しています。 黒書院からつながっています。本尊は薬師如来です。 白川砂を敷き詰めただけの簡素な南庭に対して、この北庭は、さまざまな緑や池を配していて対照的です。
235-5
仁和寺
宸殿北庭(心字池)
235-6
仁和寺
飛濤亭
235-7
仁和寺
宸殿北庭から五重塔方向
236-1
泉岳寺
山門
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 東京都港区
北庭は中央に心字池を配した池泉回遊式庭園。築山の上には、光格天皇の茶室、飛濤亭があります。 光格天皇(在位1771〜1840)の好みで建てられた草庵風の茶席です。内部は非公開になっています。国指定重要文化財。 北庭の心字池方面を見ると、築山の上に飛濤亭そして奥に中門の屋根や五重塔が見えます。意図的にこのように配しているのでしょうか。それらが庭園の見事な借景となっています。 泉岳寺の顔ともいうべき門です。泉岳寺の34世、大道貞釣和尚によって、天保3年(1832)に建立されました。この門の手前に中門があり、山門と中門をはさむ場所に大石内蔵助像があります。山門の二階部分には十六羅漢像が安置されています。
236-2
泉岳寺
中門の扁額
236-3
泉岳寺
山門天井の龍
236-4
泉岳寺
大石内蔵助像
236-5
泉岳寺
本堂
東京都港区 東京都港区 東京都港区 東京都港区
山門の手前にそびえる中門の扁額です。泉岳寺の山号「萬松山」とあります。 山門の天井には、江戸三龍のひとつにかぞえられている銅製の龍の彫物があります。案内板によると、日本の彫金の元祖、関義則の作とあります。 赤穂浅野家の菩提寺でもある泉岳寺は、忠臣蔵ゆかりの地でもあります。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日である12月14日に除幕されました。大正14年(1924)のことです。 元々の本堂は空襲によって焼失しましたが、その後再建されました。完成したのは昭和28年(1953)で、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの日である12月14日のことです。正面の扁額には「獅子吼(ししく)」と書かれています。
237-1
泉岳寺
水琴窟
237-2
泉岳寺
大石内蔵助
237-3
泉岳寺
鐘楼
237-4
泉岳寺
血染めの石
東京都港区 東京都港区 東京都港区 東京都港区
赤穂市長棟造園による寄贈と書いてあります。慶長9年(1604)から備中高梁に国奉行として滞在した小堀遠州が水琴窟を考案したと伝えられていますが、高梁に近い赤穂のこと、大石内蔵助も水琴窟の音色を聴いていたであろうという思いから、敬慕の念をこめて寄贈されたとあります。 水琴窟上の大石内蔵助像です。討ち入りの時と同じ姿をしています。小さいですが、表情もよく分かります。 朝と夕方の二回撞かれています。明治期まで使用されていた梵鐘は、ウイーン国立民族博物館に所蔵されているそうです。 もとは田村右京大夫邸にあったもので、江戸城松の廊下における刃傷事件によって切腹させられた浅野内匠頭の自刃した傍らにあったものといわれています。後ろには、同じく血染めの梅が根をおろしています。自刃の時に血がかかったといわれています。
237-5
泉岳寺
首洗いの井戸
238-1
泉岳寺
中門
238-2
泉岳寺
義士墓入口
238-3
泉岳寺
浅野長矩公の墓
東京都港区 東京都港区 東京都港区 東京都港区
討ち入りによって本懐を果たし、この泉岳寺に凱旋した後、この井戸で吉良上野介の首を洗ってから浅野内匠頭の墓前に捧げて討ち入りを報告したとされています。今でも水が湧いていました。 泉岳寺の入口にあたる門です。山門よりも外側にあり、中門というには少々違和感を感じてしまいます。 入口の門は、築地鉄砲洲(現在の聖路加国際病院付近)にあった赤穂浅野家の上屋敷の裏門だったものです。明治期に入ってこの地に移築されました。 47士墓所近くに、江戸城松の廊下の刃傷事件で切腹となった浅野内匠頭長矩公の墓があります。戒名は「冷光院殿吹毛玄利大居士」。
前の20件 次の20件

トップページへ このページの先頭へ
copyright (C) 社会科ちゃん