写真で見る日本の歴史
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184-3
関ヶ原古戦場
脇坂安治陣跡
184-4
関ヶ原古戦場
決戦地
184-5
関ヶ原古戦場
小西行長陣跡
184-6
関ヶ原古戦場
本田忠勝陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町
大谷吉継は小早川秀秋の裏切りを予想していたようで、一旦は小早川隊を山へ押し戻しますが、配下に従っていた脇坂、朽木、小川、赤座の諸隊も裏切り東軍に加わったため壊滅していきました。脇坂安治は福島正則や加藤清正らと同じ賤ヶ岳七本槍の一人でした。東軍と通じていた安治は、小早川隊の寝返りを願ってもない好機とみて、東軍が優勢となるころ合いを見計らって大谷隊に攻撃を仕掛けました。 小早川秀秋の東軍への寝返りがきっかけで一気に東軍優勢となり、石田隊は集中攻撃を受けました。しばらくは頑強に抵抗しましたが、最後は三成も伊吹山方面に敗走し、ついに西軍は総崩れになりました。石田隊が陣取っていた笹尾山を前にしたこの辺りは、その時最も激しい戦闘が行われていたところのひとつでした。 北天満山に四千の勢力で布陣した西軍主力のひとつ、小西行長隊は開戦とともに正面の敵とぶつかりました。しかし、小早川秀秋が東軍に寝返ったことから戦況は行長にとって不利になりました。そして、勢いを増した東軍の圧力に耐え切れず、午後1時ころ、本多忠勝の隊に攻撃を受けて潰走しました。 徳川四天王の一人で、「家康に過ぎたる者」といわれた徳川家譜代の重臣、本多忠勝は、軍監として参戦した関ヶ原の戦いで危機一髪の経験をしています。正面の島津隊と交戦していたときに、乗馬していた「三国黒」が被弾して落馬したのです。幸い事なきを得たのですが、有名な「関ヶ原合戦図屏風」にも落馬する忠勝の様子が描かれています。
185-1
関ヶ原古戦場
島津義弘陣跡1
185-2
関ヶ原古戦場
島津義弘陣跡2
185-3
関ヶ原古戦場
首洗いの井戸
185-4
関ヶ原古戦場
陣場野の床几場
岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町
西軍に付いた(付かざるを得なかった)島津氏は、島津義弘を大将として何とか一千の兵力を確保し、北国街道の抑えとして、ここ小池村に布陣しました。島津氏は元々は家康に付くつもりでしたが、成り行き上西軍に付かざるを得なくなったため、合戦の最中もほとんど動くことはありませんでした。三成が自ら赴いて参戦を促しに来た時も、指図は受けぬとして、その申し出を断っています。
西軍が総崩れになり、ことごとく戦線を離脱する中で、最後に取り残された島津隊は、逃げ遅れて集中攻撃を受けました。そこで、退行するのをやめ、あえて正面の家康がいる本陣の横をかすめて、伊勢街道の方へ逃亡をはかりました。これが、有名な「島津の敵中突破」です。追撃は激しく、副将格の島津豊久をはじめほとんどの兵を失いましたが、大将の島津義弘は命拾いしました。義弘は、薩摩へ帰還した後すぐに家康に詫びを入れ、本領を安堵されています。なお、追撃戦の時に、家康の四男の松平忠吉が負傷し、後にその傷がもとで死んでしまいました。
首実検に先立って、合戦で討ち取られた西軍の首級の血や土を洗い落とした時に使われたといわれている井戸です。 合戦の後、家康が西軍の諸将の首実検をしている図です。この場所は、陣場野といわれています。
185-5
関ヶ原古戦場
東首塚
185-6
関ヶ原古戦場
西首塚
186-1
三井寺
総門
186-2
三井寺
観音堂
岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 滋賀県大津市 滋賀県大津市
この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された首が、ここに眠っています。文部省(当時)の史跡指定時(昭和6年3月30日)に、標柱や石柵が建てられた後、昭和15年(1935)には、徳風会によって、名古屋から護国院大日堂とその門が移築されて、東西両軍の戦没者供養塔となりました。(案内板より) 合戦の戦死者数千人の首級を葬った塚があるところです。首塚は東西の二ヶ所につくられています。この上には、江戸時代に十一面千手観世音及び馬頭観世音が建てられ、付近の民衆の手によって供養がされています。
禅宗寺院の正門を総門といいます。三井寺(園城寺)の正門にあたります。三井寺も入口は数多くありますが、やはり総門から入るのが正しいでしょう。
三井寺(園城寺)南院の中心伽藍です。本尊は如意輪観世音菩薩像です。棟札によると元禄二年(1689)の上棟と伝えられています。正堂と礼堂とを合の間で連ねた複合建築です。県指定有形文化財。
186-3
三井寺
毘沙門堂
186-4
三井寺
村雲橋
186-5
三井寺
唐院四脚門
186-6
三井寺
長日護摩堂
滋賀県大津市 滋賀県大津市 滋賀県大津市 滋賀県大津市
昭和27年(1952)に国指定重要文化財登録。毘沙門堂は、正面一間、側面二間、一重、宝形造、檜皮葺の小建築で、極彩色を施した唐様式の建造物です。もとは、園城寺五別所の一つだった尾蔵寺の境内南勝坊に元和2年(1616)に建立されたものです。後に移築、解体修理され、昭和31年(1956)に現在の地に移されました。 開祖の智証大師(円珍)がこの橋を渡っているときに、大師が入唐の際に青龍寺が火災で焼けていることを感じました。そこで、閼伽水を橋の上からまいてみると、下から雲が湧き起こって中国向かってに飛び去ったそうです。翌年に、青龍寺から鎮火のお礼の使者がやってきたといわれています。三井寺に伝わる伝説のひとつです。 唐院は智証大師円珍が入唐して天安2年(858)に請来した経巻・法具類を貞観10年(868)に納め、伝法道場にしたことにはじまります。四脚門は唐院の表門で、奥へ潅頂堂、唐門大師堂と一直線に並ぶ最前列の位置にあります。この門は、もともと棟門形式として建立されましたが、建立後まもなく四脚門に変更されたものと考えられています。切妻造、檜皮葺。寛永元年(1624)の建立。国指定重要文化財。 桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦葺。正面は桟唐戸、両脇を連子窓でつくられています。寺伝によると後水尾天皇(在位1611〜1629)の祈願により建てられたものと考えられています。滋賀県有形文化財。
186-7
三井寺
潅頂堂
187-1
三井寺
一切経蔵
187-2
三井寺
一切経蔵内の輪蔵
187-3
三井寺
三重塔
滋賀県大津市 滋賀県大津市 滋賀県大津市 滋賀県大津市
大師堂と四脚門にはさまれて立つ、拝殿としての役割を持つ建物です。長日護摩堂と渡り廊下でつながっています。これらの伽藍がたつ唐院は、円珍の廟所などもあり、境内でももっとも重要な場所のひとつになっています。
一切経(大蔵経)とは、仏教すべての経典のことをいいます。それが納められてある蔵がこの一切経蔵です。宝形造、檜皮葺の禅宗形式の建物です。裳階とよばれる飾り屋根が付いているため、二重に見えますが、内部は一重です。内部は、版木の一切経が納められている八角形の輪蔵があります。元々山口県の国清寺にあったものを毛利輝元によって、慶長7年(1602)に移されたものといわれています。国指定重要文化財。
一切経蔵内部の八角形の輪蔵です。輪蔵とは回転式の書架のことで、版木で書かれた一切経が納められています。高いところから光を入れる仕組みである明層とよばれる隙間があります。
もとは大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長6年(1601)に移築したものです。南北朝時代(14世紀ころ)の建築とされています。三間三重の塔婆の形式で、本瓦葺。二重目と三重目に菱格子が用いられているのが珍しいとされています。国指定重要文化財。
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