写真で見る日本の歴史
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173-2
宇治上神社
入口
173-3
宇治上神社
拝殿
173-4
宇治上神社
本殿
174-1
福岡城
潮見櫓
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 福岡県福岡市中央区
さわらびの道とよばれる遊歩道からさらに奥に入ったところにあります。どちらかといえば小さな神社ですが、文化的価値は高く、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつに数えられています。
鎌倉時代初めごろの建築で、現存する最古の拝殿です。桁行六間、梁行三間。檜皮葺。平安時代の代表的な建築様式である寝殿造をしています。 平安時代後期の建築と考えられており、現存する最古の本殿で、神社遺構としても日本最古とされています。正面一間の流造りの内殿三棟を覆屋でつなげた形をしています。祭神は左から仁徳天皇、中央が父の応神天皇、右が応神天皇の皇子にして仁徳天皇の弟、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。
福岡城の築城者は、関ヶ原の戦いで東軍に属して活躍した功によってこの地を領した黒田長政です。長政は、築城にあたり、当時47棟もの櫓を築きましたが、そのうち西北隅にあったものが、この潮見櫓です。大正の初めに、黒田家別邸に移築された後、昭和31年(1956)にこの地に復元されました。
174-2
福岡城
名島門
174-3
福岡城
旧母里太兵衛長屋門
174-4
福岡城
三ノ丸御鷹屋敷跡
174-5
福岡城
黒田如水公隠居地
福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区
福岡市指定文化財。この門はもともと小早川隆景が築いた名島城にあった城門です。黒田長政が名島城に入城し、居城を福岡城に移すときに、家臣の林掃部に下げ渡され、邸宅の門として使用されていました。明治の中ごろに、長崎に移築されそうになったものを当時の代議士が買い、自宅の門とした後、この地に移築されました。
福岡県指定文化財。天神二丁目にあった母里太兵衛の屋敷から昭和40年(1965)にこの地に移築されました。母里太兵衛(もりたへい)は黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲みとった豪傑として知られています。黒田節「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取るほどに 飲むならば これぞ真の黒田武士」 この三ノ丸にあった御鷹屋敷は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛孝高の隠居地です。現在は、「ボタン・シャクヤク園」になっています。 秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛孝高は、長子長政に家督を譲った後で、如水円清と号して福岡城内のこの地に隠居しました。
174-6
福岡城
東御門跡
174-7
福岡城
二ノ丸
175-1
福岡城
南丸多聞櫓1
175-2
福岡城
南丸多聞櫓2
福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区
大手門から二ノ丸に入るところにあった主要な門でした。この門の東側石垣上には、二層の炭櫓(高矢倉)、西側には革櫓が設けられていました。 東西に長い梯郭式の平山城だった福岡城で、三ノ丸と本丸をつなぐ位置にあったのがこの二ノ丸です。
南丸は二ノ丸南郭ともよばれ、江戸時代から現存している数少ない多聞櫓があります。写真は南東隅にある櫓です。
桁行は三十間あります。建築年代は明らかでなく、近世初期の部材を一部用いていますが、この平櫓は嘉永6年(1853)の建て替えといわれています。多聞櫓は防御のための長塀で、内部は突き抜けていて、平素は倉庫などに使われているのが普通ですが、この多聞櫓は、十六の小部屋が独立しており、中には石落としのみで、城外を見る窓がない部屋もあります。
175-3
福岡城
南丸多聞櫓3
175-4
福岡城
本丸之図
175-5
福岡城
裏御門跡
175-6
福岡城
御時櫓跡
福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区
二重二階切妻造りの隅櫓です。福岡城の建物の特徴とされる建物の軒先を支えている方杖と端隠し板で垂木口を隠す工法が見られます。 裏御門跡近くにある本丸の表示板です。藩主の住まいである御殿があり、また大中小の三つの天守台が現存しています。但し、天守閣は建てられなかったといわれています。 現在の本丸跡へはここをのぼっていきます。左の石垣上には太鼓櫓があったとされています。 本丸の北西隅にあった櫓の跡です。時を告げる鐘がありました。
175-7
福岡城
祈念櫓
176-1
福岡城
小天守入口
176-2
福岡城
小天守台
176-3
福岡城
大天守台
福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区 福岡県福岡市中央区
本丸の北東隅に鬼門封じのために建てられたものです。現在の建物は万延元年(1860)につくられました。大正7年(1918)に北九州市八幡西区の大正寺境内の観音堂として移築されましたが、その後再び福岡城内の現在地に昭和58年(1983)に移築されました。外観などは、大正寺への移築の際に大幅な改変をされたようで、もともとは二層目の窓が花頭窓だったことが分かっています。
福岡城の本丸、中枢部分に大中小の三つの天守台があります。現在は石垣の遺構だけですが、それぞれの天守にのぼることができます。
階段を上がった先の広くなっているところが、小天守台の跡です。広さはさほどでもありません。
天守台は造られていますが、実際は天守閣は建てられなかったとのことです。しかし、礎石の他に柱の遺構らしきものが見つかっているらしく、一度建てられはしたが、すぐに取り壊されたという説もあります。
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