写真で見る日本の歴史
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龍安寺
紅葉
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龍安寺
油土塀
162-6
龍安寺
つくばい
163-1
歴史人物
織田信長
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 愛知県清須市
龍安寺を含め、京都の社寺は紅葉の名所が多いです。
石庭を囲む塀です。土塀の色と石庭が調和しています。2006年3月に4ヶ月をかけて土塀のこけら葺き屋根をふきかえたばかりです。この油土塀は、菜種油を混ぜた土を使用しており、石庭の白砂からの照り返しを防ぐ役割もあるとの事です。
水戸光圀の寄進といわれるつくばい(複製)です。四つの文字は中央の口の部分を部首として漢字を形成します(例えば「五」と「口」で「吾」)。つなげて読むと「吾唯足知(ワレタダタルヲシル)」となります。「知足の者は貧しといえども富めり、不知足は富めりといえども貧し」という意味です。
尾張の大名、織田信秀の嫡男。「大うつけ」と呼ばれていましたが、織田家の家督争いに勝ち、当主になると、桶狭間の戦いで今川義元を破り、快進撃をつづけました。美濃、近江などを平定した後、安土に壮大な城を築くなど天下統一を目前にしていましたが、家臣の明智光秀の謀反により、京都の本能寺において自害しました。
163-2
歴史人物
吉川広家
163-3
歴史人物
井伊直政
163-4
歴史人物
藤堂高虎
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歴史人物
本多忠勝
鳥取県鳥取市 滋賀県彦根市 三重県津市 愛知県岡崎市
織田信長の家臣だった羽柴秀吉の軍勢が因幡に侵攻してきた際、鳥取城の防衛を任されて派遣されてきました。早速、籠城の準備をはじめましたが、兵糧は秀吉らによって高値で買い漁られており、ほとんどない状態だったといいます。1581年から始まった鳥取城攻防戦は、秀吉軍の兵糧攻めによって、餓死者が続出して戦闘どころではなくなってしまいました。そして、4ヵ月後の10月、降伏し、城兵の助命と引き換えに自害しました。
徳川家康の譜代の家臣で、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政とともに、徳川四天王のひとりとされています。「井伊の赤備え」とよばれる精鋭部隊を率いて家康と共に戦いました。関ヶ原の合戦後は、石田三成の旧領を与えられ、初代彦根藩主となりました。 はじめ浅井長政の家臣として仕え、浅井氏滅亡の後は織田家に仕えるようになります。その後も主君を転々とします。まず、羽柴秀長(秀吉の弟)のもとで、伊予宇和島8万石の大名にまで出世しましたが、秀吉の死後は家康に仕え、伊予今治20万石、最終的には伊勢津藩主となり32万石の大名までなりました。家康からの信頼も厚かったようで、外様でありながら譜代大名と同格(別格譜代)とされました。 徳川家康子飼いの武将にして徳川譜代の筆頭格。徳川四天王のひとりに数えられます。武田氏との戦闘で活躍したときは敵に「家康に過ぎたるもの」と評されたほどの勇猛果敢な武将だったとのことです。戦では生涯一度も負傷することがなかったといわれています。忠勝が使っていた槍は、蜻蛉切といって御手杵、日本号とともに天下三名槍といわれていました。
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歴史人物
加藤清正
164-1
酒船石遺跡
酒船石遺跡全景
164-2
酒船石遺跡
湧水設備
164-3
酒船石遺跡
小判形石造物
愛知県名古屋市 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村
秀吉子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍のひとり。秀吉のもとで出世したいわゆる豊臣恩顧の大名。しかし、福島正則らとともに徳川家康に加担して、家康天下の後は、肥後52万石の大名になりました。また、築城とくに石垣積みの名手として知られ、居城である熊本城や城普請に参加した名古屋城などでは、扇の勾配といわれる反りを特徴とした石垣が見られます。
平成12年(2000)発見の新しい遺跡です。近隣に以前からあった酒船石とまとめて、酒船石と明日香村教育委員会によって名づけられました。小判形や亀形の石造物があり、導水設備と考えられています。また、斉明天皇の両槻宮の関連施設ではないかともいわれています。いずれにせよ、定かではありません。
砂岩でつくられています。ここから人工的に水を出して、下の小判形、亀形石造物へ流れ込む仕組みになっていたと考えられています。
長さ1.65m、幅1m、深さ20cmです。湧水設備から流れでてくる水を受ける水槽の役目を果たしていました。さらに、下の亀形石造物へと水を導く構造になっています。
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酒船石遺跡
亀形石造物
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酒船石遺跡
石敷と石段
165-1
国宝建築6
姫路城東小天守
165-2
国宝建築6
慈照寺東求堂
奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 兵庫県姫路市 京都府京都市左京区
長さ約2.4m、幅約2mです。小判形石造物とよばれている上の水槽から頭の部分に向かって水が流れ込む仕組みになっています。さらに、その水は尻尾の部分にある排水口から流れ出していました。 平成4年(1992)に酒船石の北斜面にあたるこの部分から初めにこれらの石垣が発見されました。その後、平成12年(2000)になって、周囲の発掘が行われ、石造物群が発見されました。
西小天守、乾小天守と同じ姫路城の小天守群のひとつです。位置的には見えにくい場所にあります。他の二つの小天守と違って、破風や華燈窓がなく簡素な造りとなっています。
桁行6.9m、梁間6.9m、一重、入母屋造、檜皮葺です。1466(文明14)年建立。1558(永禄元)年の兵火の際にも銀閣とこの東求堂だけは戦災から免れました。別名を持仏堂といいます。内部の仏間、同仁斎は日本最古の茶室といわれていますが元来は書斎として建てられたものだそうです。一般に書院造の建築といえばこの慈照寺(銀閣寺)東求堂同仁斎が代表的です。またこの同仁斎は、四畳半の間取りの始まりといわれています。
165-3
国宝建築6
薬師寺東塔
165-4
国宝建築6
唐招提寺経蔵
165-5
国宝建築6
法隆寺回廊
166-1
本圀寺
参道
奈良県奈良市 奈良県奈良市 奈良県生駒郡斑鳩町 京都府京都市山科区
奈良時代(天平2年、730年)より、その姿をとどめ、幾多もの戦乱にも焼失せず現在に残された唯一の建物です。6重に見えますが、それは「裳階(もこし)」とよばれる飾り屋根が各階にあるからで、実際は、3重の塔です。最上階の屋根の上にみえる飾りを「水煙」といいますが、明治時代の美術研究家のフェノロサは、これを見て、「凍れる音楽」といってその芸術的価値の高さをほめたたえたといいます。 隣接する北隣には宝蔵があり、同じ校倉造の国宝建築です。校倉造といえば東大寺正倉院の正倉が有名ですが、ここの校倉造はそれよりも古い最古のものといわれています。唐招提寺の創建以前ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものとされます。 連子窓とギリシャ神殿と同じ柱の真ん中が太くなっているいわゆるエンタシスとよばれる造りが特徴です。ヘレニズム文化の影響がこの時代日本にまで及んでいた証拠となった有名な建築物です。中門を入口とした西院伽藍を取り囲むように建っています。
琵琶湖から京都へとつながる琵琶湖疏水の途中、山科疏水にかかる橋を渡ると本圀寺に行くことができます。
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