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159-6
高知城
一領具足 |
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159-7
高知城
天守閣外観図・断面図 |
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159-8
高知城
天守閣3 |
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160-1 高知城
天守閣と本丸御殿 |
高知県高知市 |
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高知県高知市 |
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高知県高知市 |
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高知県高知市 |
一領具足とは長宗我部氏の家臣団で、半農半兵の暮らしをしていた人々です。関ヶ原の戦いで西軍に与していた長宗我部氏は敗戦後、領地没収となりました。一領具足の人々も浪人となりましたが、新しい領主となった山内一豊の家臣となることが期待されましたが、実際は他国から家臣を連れてきて土佐に入国したこともあって、浪人のままとなり、反乱が頻発する原因となりました。
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外観は三層ですが内部は六階建てとなっています。高欄の下の層を重視して四層と見る専門家もいます。最上階は高欄をめぐらした望楼となっていて、望楼式あるいは開放式天守とよばれています。
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本丸からの天守閣の眺めです。手前に見える建物が懐徳館とよばれる本丸御殿です。本丸には天守台がなく、御殿を通って直接天守閣の中に入る仕組みになっています。このように防御には適さない造りとなっていることから、本丸の上にさらに天守郭があったと考える説もあります。
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他のお城に見られるような天守台はありません。天守閣へは、本丸御殿を通ってから直接入ることになります。
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160-2 高知城
懐徳館 |
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160-3 高知城
透彫欄間 |
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160-4 高知城
正殿 |
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160-5 高知城
物見窓 |
高知県高知市 |
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高知県高知市 |
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高知県高知市 |
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高知県高知市 |
懐徳館とは本丸正殿(本丸御殿)の通称です。「先人の徳を懐かしむ」という意味がこめられています。慶長8年(1603)に創建されました。一時期は、初代藩主の山内一豊と妻の千代が住んでいたと思います。享保12年(1727)に焼失しましたが、延享4年(1747)に再建され現在に至っています。本丸御殿の遺構としては全国唯一のものとされ、国の重要文化財に指定されています。
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下段の間と次の間の境に、土佐の黒潮をかたどった欄間があります。この欄間はうちわけ波の欄間といわれ、土佐の左甚五郎といわれた武市高朋の作と伝えられています。 |
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他の部屋より床を一段高くした藩主の御座所です。西側には武者隠しにつながる納戸があり、小襖をとりつけてあります。 |
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南矢狭間塀。土壁の上面寄りに一間幅で横長に横連子の武者窓を設けています。本丸東南面の物見を一手に引き受けていた軍学上重要な窓で、高知城のみに残っています。 |
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160-6 高知城
竹の節欄間 |
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160-7 高知城
鐘撞堂 |
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160-8 高知城
黒鉄門 |
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161-1
龍安寺
山門 |
高知県高知市 |
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高知県高知市 |
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高知県高知市 |
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京都府京都市右京区 |
竹の節状の繰形を持った束で構成される欄間意匠です。間仕切り上部に使用されています。平安時代の貴族の邸宅である寝殿造の欄間にも見られます。 |
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藩政期には太鼓丸にありましたが、明治になって現在の場所に移されました。鐘楼。 |
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入母屋造り本瓦葺きの櫓門です。柱や門扉に多くの鉄板が打ち付けてあるとともに、板張りで漆喰で塗られていないことから黒鉄門とよばれています。 |
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拝観受付を済ますと、はじめにこの門をくぐることになります。龍安寺は平安時代の貴族、徳大寺家の別荘を室町幕府の管領職にあった細川勝元が譲り受け、禅寺に改めたのが始まりです。
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161-2
龍安寺
参道 |
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161-3
龍安寺
鏡容池 |
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161-4
龍安寺
垂示の松 |
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161-5
龍安寺
パゴダ(仏塔) |
京都府京都市右京区 |
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京都府京都市右京区 |
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京都府京都市右京区 |
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京都府京都市右京区 |
左に鏡容池を見ながらの道です。紅葉の時期は、美しい木々が見られます。
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かつてはおしどりがたくさんいたので、「おしどり池」とよばれていたそうです。池の周りを一周歩くことができ、回遊式庭園になっています。この池は、龍安寺創建以前の徳大寺氏によって造られました。 |
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常照禅師の松です。常照禅師は龍安寺の石庭を作った人です。妙心寺の12代目の管長となった人で、応仁の乱で荒廃した妙心寺を復興させました。 |
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「第二次世界大戦でビルマ派遣野戦自動車廠に参戦した龍安寺第五十八代、松倉紹英住職等の発願により共に国のために尊い生命を捧げた亡き戦友達の慰霊の為に無事復員した戦友一同の募金によってこのパゴダが昭和45年8月に建立されました。」とあります。 |
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161-6
龍安寺
庫裏 |
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162-1
龍安寺
石庭 |
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162-2
龍安寺
ミニ石庭 |
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162-3
龍安寺
方丈 |
京都府京都市右京区 |
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京都府京都市右京区 |
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京都府京都市右京区 |
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京都府京都市右京区 |
石段を上った正面にあります。 |
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石庭といえば龍安寺を連想するほど、有名な庭です。室町時代末期の頃の作庭と伝えられていますが、作者や詳細な作庭年代などは諸説があります。15個の石を配置しただけの簡素な庭です。普通に眺めただけでは、どの方向から見ても一つだけ見えないといわれています。「虎の子渡しの庭」といわれています。
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目が見えない人のための石庭の模型です。「一般の方は手をふれないでください。」とあります。
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慶長2年(1606)に塔頭の西源院の塔頭として織田信長の弟織田信包によって建立されました。寛政9年(1797)に龍安寺の方丈が焼失したため、移築されました。 |
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