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  • 198-5媽姐堂内部

    【崇福寺】向かって右に順風耳、左に千里眼の立像があります。崇福寺の媽祖像は市内にある媽祖像の中でもで唯一衣装を着けており、数年に一度女性によって着せ替えられるのだそうです。唐船に祀る媽姐像は、長崎に在港中、唐船の船主たちによってこの媽姐堂に奉安されていました。堂内正面には、海の神様である媽姐が祀られています。現在でも、旧暦3月23日に華僑が盛大なお祭りをします。

    (長崎県長崎市)

  • 198-6媽姐門と方丈

    【崇福寺】左手が媽姐門で奥に方丈が見えます。媽姐門が方丈へとつながる廊下になっていることが分かります。その向かって右手には、天和年間におきた飢饉の時に人々に粥をふるまうためにつくられたといわれている大釜があります。

    (長崎県長崎市)

  • 199-1三門

    【崇福寺】別名「竜宮門」といいます。入口に見える狛犬はどちらも口を開けていて、いわゆる「阿吽の呼吸」ではありません。中国では、口が開いているどうかは関係なく、毬を抱えている方がオス、子獅子と戯れている方がメスなのだそうです。崇福寺が唐寺であることが改めてうかがえます。

    (長崎県長崎市)

  • 199-2護法堂

    【崇福寺】左から天王殿、観音堂、関帝堂の三つの堂から成ります。左から韋駄天、観音、関帝(関羽)をまつっています。軸部を中国で切組んだものを唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと考えられています。享保16年(1731)完成。国指定重要文化財。

    (長崎県長崎市)

  • 199-3大釜

    【崇福寺】鍛冶屋町の鋳物師、安山弥兵衛によってつくられたと考えられている大釜です。重さは約1.2トン。一度に約10俵(630kg)、三千人分の粥が炊けたといわれています。第2代住持であった唐僧・千呆(せんがい)が、飢饉救済の施粥のために造りました。天和2年(1682)4月完成。

    (長崎県長崎市)

  • 199-4魚板

    【崇福寺】天保2年(1831)三門建築の棟梁大串五良平らが寄進したものです。お坊さんたちに飯時を告げる時にこれを叩いていました。お腹の部分が叩かれた跡でへこんでいます。木魚の原型で、中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)をかたどっています。くわえている玉は欲望を表しており、これを叩いて吐き出させるという意味があります。

    (長崎県長崎市)

  • 199-5鐘鼓楼

    【崇福寺】太鼓と梵鐘が置いてあるので鐘鼓楼とよばれています。現在の位置にはかつて大釜が置いてあったそうですが、享保13年(1728)に鐘鼓楼が再建された時、現在の場所に移りました。

    (長崎県長崎市)

  • 199-6祠堂

    【崇福寺】祠堂(しどう)といいます。古そうな建物ですが、建築年代などは分かりませんでした。

    (長崎県長崎市)

  • 【宿木】

    200-1宇治十帖「宿木」

    【宿木】宿木」は宇治十帖の5、源氏物語第49帖にあたります。一時とりやめになっていた匂宮と六の君との結婚が決まり、中の君は宇治を離れて匂宮のもとへやってきたことを後悔しはじめます。薫はそんな中の君の悲しむ姿を見て、匂宮を恨むとともに、中の君に心を寄せ始めました。宇治へ帰りたいとすがる中の君に言い寄った薫でしたが、その時に、中の君が懐妊していることに気づいたのでした。一転して、懐妊を喜んだ匂宮は、薫と中の君が親密なのをとがめました。そこで、困り果てた中の君は再び薫が言い寄ってきた際に、亡き大君にそっくりな異母妹、浮舟の存在を打ち明けました。のちに大納言に昇進した薫は、以前から帝に勧められていた女二の宮と結婚しました。

    (京都府宇治市)

  • 200-2宿木之古蹟

    【宿木】旅館街の先、宇治川を50mほど上流に行ったところに宿木の古跡があります。ちょっとした広場になっていて、中央に石碑があります。

    (京都府宇治市)

  • 200-3寄り木之古蹟

    【宿木】こちらの石碑は、宇治十帖古跡の他の場所にも見られるものです。「宿木」が「寄り木」となっています。宿木とは、ケヤキなどに寄生する植物のことです。

    (京都府宇治市)

  • 【東屋】

    201-1宇治十帖「東屋」

    【東屋】「東屋」は宇治十帖の6、源氏物語第50帖にあたります。浮舟は、八の宮に仕えていた中将の君と八の宮の間とにできた姫です。中将の君は常陸の介という人物の後妻となっていました。浮舟には求婚者がありましたが、それは常陸の介の財産を目的としたものだったので、浮舟が常陸の介の実のむすめではないことを知ると、縁談を断ってさっさと他の姫と結婚してしまいました。失意のうちに、浮舟は中の君のもとに身を寄せましたが、そこで偶然出会った匂宮に言い寄られてしまいます。驚いた母は浮舟を三条大橋東の小家にかくしました。その浮舟の消息を知った薫は、浮舟を引き取って宇治に移しますが、浮舟を愛しく思いながらも大君の面影を見ていました。

    (京都府宇治市)

  • 201-2東屋之古蹟

    【東屋】東屋観音内にある、宇治十帖「東屋」の古跡を表す碑です。

    (京都府宇治市)

  • 201-3東屋観音

    【東屋】宇治橋東詰、京阪宇治駅にほど近い場所にある東屋観音とよばれている場所が、東屋の古跡となっています。

    (京都府宇治市)

  • 201-4石造聖観世音菩薩坐像

    【東屋】案内板によると、像高115cm、鎌倉時代後期の作品と考えられており、現在、宇治市の指定文化財であり、東屋観音とよばれています。「この石仏は、花崗岩に厚肉彫りされた聖観音菩薩像で、別の石で造られた蓮華座に坐し、その上に二重円光を負い、宝冠をつけた右手は施無畏印、左手は蓮華を捧げて結跏趺坐する。」とあります。

    (京都府宇治市)

  • 【国宝建築7】

    202-1園城寺金堂

    【国宝建築7】桁行7間、梁間7間、一重入母屋造、檜皮葺。慶長4年(1599)に豊臣秀吉の正室、北政所によって建てられました。また、内陣に安置されている厨子も様式からみて同時代の作とされています。

    (滋賀県大津市)

  • 202-2法隆寺大講堂

    【国宝建築7】法隆寺の東院伽藍の入口、中門をくぐった正面に位置します。法隆寺の中で一番大きな建物です。現在の法隆寺伽藍には初めは講堂はありませんでした。代わりに、食堂(じきどう)が現在の大講堂の位置にあったといわれています。その食堂も925年に焼失しました。現在の大講堂は正暦元年(990)に再建されたものです。

    (奈良県生駒郡斑鳩町)

  • 202-3東大寺転害門

    【国宝建築7】東大寺に残る天平時代唯一の建物です。門には寺院の門にもかかわらず注連縄があり、珍しいものです。東大寺の鎮守、手向山八幡宮の転害会がここをお旅所としたことから転害門とよばれるようになりました。別名を「佐保路門」あるいは「景清門」。

    (奈良県奈良市)

  • 202-4興福寺五重塔

    【国宝建築7】高さは50.8mもあり、五重塔としては京都にある東寺のものについで日本で二番目に高いです。天平2年(730)、聖武天皇の皇后光明子の発願で創建されました。現存の塔は応永33年(1426)頃の再建です。

    (奈良県奈良市)

  • 202-5唐招提寺宝蔵

    【国宝建築7】唐招提寺の創建当時から残る建物のひとつです。隣接して、同じ形の経蔵があります。経蔵の方はこちらの宝蔵よりも若干古いと考えられています。校倉造りで、日本で最も古い校倉造りともいわれています。

    (奈良県奈良市)

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