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  • 187-4霊鐘堂

    【三井寺】鐘を安置するために建てられたお堂という珍しい建物です。現在ここに安置されている鐘には、山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(三井寺)との間での抗争があった際、比叡山に持ち去られたときについたと考えられている傷が残っています。この鐘は、現在では「弁慶の引きずり鐘」といわれています。

    (滋賀県大津市)

  • 187-5弁慶の汁鍋

    【三井寺】霊鐘堂内にあります。弁慶が使用したとの伝説がある汁鍋です。ご覧のとおり大きい鍋です。

    (滋賀県大津市)

  • 187-6弁慶の引きずり鐘

    【三井寺】比叡山の僧だった弁慶が三井寺との抗争の時に奪って持ち帰ったとの伝説がある鐘です。その後で、撞いてみると「イノー」(関西弁で「帰りたい」という意味)と音をたてたので、怒った弁慶が「帰りたければ帰れ」と谷底へ突き落したといわれています。表面の傷は、伝説では、その時にできたものとされています。元々、三井寺の初代の梵鐘で、奈良時代の作といわれています。

    (滋賀県大津市)

  • 187-7閼伽井屋

    【三井寺】閼加井とは、仏前に供養する水を汲む井のことで、その覆い屋のことを閼加井屋といいます。三井寺の閼加井屋は、桃山時代の建築です。中の井泉は、天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっています。

    (滋賀県大津市)

  • 188-1鐘楼

    【三井寺】「三井の晩鐘」がかけられている鐘楼。切妻造、檜皮葺きの建物です。建築年代は慶長年間(桃山時代)といわれています。昭和42年6月に国の重要文化財に指定されました。

    (滋賀県大津市)

  • 188-2三井の晩鐘

    【三井寺】「三井の晩鐘」がかけられている鐘楼。切妻造、檜皮葺きの建物です。建築年代は慶長年間(桃山時代)といわれています。昭和42年6月に国の重要文化財に指定されました。「弁慶の引きずり鐘」に代わって設置された鐘です。

    (滋賀県大津市)

  • 188-3金堂

    【三井寺】慶長4年(1599)に豊臣秀吉の正室北政所(ねね・おね)によって建てられたものです。桁行七間、梁間七間、一重入母屋造。ひときわ目をひく屋根は檜皮葺です。昭和28年(1953)3月に国宝に指定されました。

    (滋賀県大津市)

  • 188-4堂前灯籠

    【三井寺】別名を園城寺金堂無名指灯籠といいます。天智天皇が大化の改新を始めるにあたって、蘇我氏一族を滅ぼした時に、その罪障消滅のために天皇自らの左薬指(これを「無名指」といいます)を切り、この灯籠の台座下に納めたと伝えられています。

    (滋賀県大津市)

  • 188-5食堂(釈迦堂)

    【三井寺】桁行七間、梁間四間、一重入母屋造、檜皮葺の建物です。もとは、御所の清涼殿だったともいわれています。現在は釈迦如来がまつられているので、釈迦堂の名称で親しまれています。もともとの建築年代は、室町時代の初期といわれていますが、江戸時代に付けられた唐破風の向拝など、後世になって改造されたところが多々あります。明治45年(1912)2月に国の重要文化財に指定されました。

    (滋賀県大津市)

  • 188-6大門

    【三井寺】両脇に仁王像が安置されていることからも、別名を仁王門といいます。建築は宝徳4年(1452)にさかのぼります。三井寺中院の表門です。常楽寺(湖南市石部町)の門だったのが、秀吉の頃に伏見に移築され、さらに慶長6年(1601)に家康によって現在地に建てられたといわれています。重要文化財。

    (滋賀県大津市)

  • 188-7新羅善神堂

    【三井寺】園城寺(三井寺)の境内から、少し離れたところにあります。現在は非公開らしく、塀越しに垣間見ることしかできません。三間四方の流れ造り、屋根は檜皮葺の建物です。暦応3年(1339)に足利尊氏による再建のものが現在の建物とされています。建物自体も国宝ですが、この建物に安置されている、園城寺(三井寺)開祖の智証大師の守護神とされる新羅明神の座像も国宝です。源頼義の子、義光がここで元服し、新羅三郎義光と名乗ったのは有名です。

    (滋賀県大津市)

  • 【板付遺跡】

    189-1観音堂

    【板付遺跡】板付遺跡は、日本最古の二重環濠集落遺跡。稲作が日本で開始されたころの最も古い遺跡です。東西約80m、南北約110mのV字型の環濠に囲まれています。

    (福岡県福岡市博多区)

  • 189-2環濠跡

    【板付遺跡】幅約6m、深さは約3mあります。立派な環濠があったことを考えると、周囲のムラと争いが絶えなかったことがうかがえます。板付遺跡の環濠は直径が約110mもありますが、環濠の内側はもちろんのこと、外側にも集落が発達していたと考えられています。

    (福岡県福岡市博多区)

  • 189-3竪穴住居

    【板付遺跡】縄文時代の住居である竪穴住居は弥生時代にも引き継がれています。縄文人と弥生人は別系統という説もありました。しかし、板付遺跡では縄文時代の末から稲作が行われていたり、竪穴住居跡が発掘されていたりすることからも、二つの時代は連続ししていたのではないかとも考えられています。

    (福岡県福岡市博多区)

  • 189-4竪穴住居内部

    【板付遺跡】復元された竪穴住居の内部です。床面は地面よりも一段低くなっています。この復元住居は心無い人による不審火にあったことがあるとの事です。

    (福岡県福岡市博多区)

  • 189-5復元水田

    【板付遺跡】板付遺跡にある復元水田。稲がたわわに実っていました。隣接する板付北小学校と地域の人達によって毎年田植えが行われ、赤米、もち米などが栽培されています。

    (福岡県福岡市博多区)

  • 189-6板付遺跡弥生館

    【板付遺跡】市立の施設で入館料は無料です。館内は板付遺跡の模型が中心にあり、季節ごとの暮らしが分かる資料や土器などのレプリカが展示してあります。

    (福岡県福岡市博多区)

  • 【山科疏水の道2】

    190-1第二トンネル西口/h3>

    【山科疏水の道2】第二トンネルは長さ125m、2436mもあり、当時最長だった第一トンネルと比べると短いです。このトンネル口はなかなか凝ったつくりになっていて、正面には「隨山到水源」とかかれた扁額が掲げられています。実はこの第二トンネルと第一トンネルとの間にはもうひとつ日の岡のトンネルがありますが、そのトンネルはJR湖西線の工事に伴って昭和になってつくられたものです。

    (京都府京都市山科区)

  • 190-2隨山到水源

    【山科疏水の道2】「やまにしたがいすいげんにいたる」と読みます。「山に従って行くと水源にたどり着く」という意味です。西郷従道の揮毫によるものです。

    (京都府京都市山科区)

  • 190-3日本初の鉄筋コンクリート橋

    【山科疏水の道2】幅約2mの小さな橋ですが、これが日本最初の鉄筋コンクリート橋です。昭和7年(1932)の建設。現在は、写真のように柵が設けられています。

    (京都府京都市山科区)

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