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  • 195-4本丸櫓門

    【等持院】本丸側からみた本丸櫓門(一の門)です。幅13m、高さ11mで木造本瓦葺入母屋造りです。木材には国産材の欅、杉、檜などを、石材に赤穂産の花崗岩を使用しています。

    (兵庫県赤穂市)

  • 195-5本丸御殿庭園跡

    【赤穂城】間取りを復元表示した表御殿の先には、直線と曲線を巧みに組み合わせた造りになっている大池泉が復元されています。発掘調査によって全体の姿が明らかになりました。それによると、東西38m、南北26m、外周約150mの規模で、中島、入江、岬を備え、池底には割石や瓦が敷き詰められていたとのことです。

    (兵庫県赤穂市)

  • 195-6天守台

    【赤穂城】天守台のみ造られ、実際には天守閣は当初より存在していませんでした。石垣は打ち込みハギ造り。崩壊していた部分と階段は、それぞれ昭和12年(1937)と昭和60年(1985)に修復整備されました。

    (兵庫県赤穂市)

  • 195-7厩口門

    【赤穂城】浅野氏の時代は厩口門といわれていましたが、森氏の頃は、台所門といわれていました(森氏の頃は二の丸東仕切門を厩口門といっていました)。廃城後に取り壊されてしまい、赤穂高校の通用口として使用されていましたが、平成8年(1996)の発掘調査で建坪5坪の高麗門だったことが判明し、復元されました。

    (兵庫県赤穂市)

  • 195-8米蔵(市立歴史博物館)

    【赤穂城】川口門ともよばれた清水門の先に、復元された米蔵があります。この清水門は、大石内蔵助が赤穂城引き渡しの際に最後に城を後にした門といわれています。米蔵は外観のみ復元されており、中は赤穂市の市立歴史博物館になっています。

    (兵庫県赤穂市)

  • 【歴史人物9】

    196-1西郷隆盛

    【歴史人物9】上野公園にある西郷隆盛像です。薩摩藩の下級武士の子として生まれました。本名を隆永といいます。薩摩藩の藩主だった島津斉彬のもとで懐刀として出世していきましたが、斉彬の死後、藩主の実父で実力者の島津久光と折り合いが悪く、失脚。二度の流罪にもなりました。しかし、家老の小松帯刀や大久保利通らによって復帰し、薩長同盟を締結するなど、倒幕を主導するなどして活躍しました。戊辰戦争の時は、江戸城総攻撃の前に勝海舟と話し合い、江戸城の無血開城を成功させました。明治新政府では、参議として廃藩置県の実現などに活躍しましtが、自らが主張した征韓論を大久保利通らに反対され、鹿児島に帰りました。そして、最後にして最大の士族の反乱、西南戦争を起こし、敗れて自害しました。

    (東京都台東区)

  • 196-2池田勇人

    【歴史人物9】明治32年(1899)に広島県竹原市に造り酒屋を営む父(吾一)と母(うめ)との間にうまれました。京都帝国大学法学部(現、京都大学法学部)を卒業後、大蔵省へ入りました。吉田茂内閣の時、石橋湛山蔵相のもとで大蔵事務次官を務め、昭和24年(1949)に衆議院初当選。すぐに大蔵大臣となり、自由党幹事長や通産大臣などを歴任しました。昭和35年(1960)に岸信介の後を継いで内閣総理大臣に就任しました。在任中は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長を推し進めました。また、東京オリンピックを実現させましたが、その閉会式の翌日、昭和39年(1964)10月25日に辞意を表明しました。そして、その翌年、咽頭癌による手術を受けましたが、その術後肺炎によって亡くなりました。

    (広島県広島市中区)

  • 196-3中江藤樹

    【歴史人物9】農業を営んでいた中江吉次の長男として生まれました。祖父、中江徳左衛門の養子として、9歳の時に米子に行きました。そこで、米子藩主加藤貞泰に仕え、伊予国大洲へ国替えになった際も同行しました。その後、脱藩して近江へ帰郷。そこで、伊勢亀山藩士高橋小平太の娘、久と結婚しました。この時期、自宅で私塾を開いていましたが、屋敷に藤があったことから藤樹とよばれ、塾の名も藤樹書院とよばれるようになりました。

    (愛媛県大洲市)

  • 196-4大国主命

    【歴史人物9】兄の八十神たちが、因幡のヤカミヒメのもとに求婚に行く際に、その兄たちに同行して因幡に行きました。その途中、傷を負った白うさぎに出会いました。その白うさぎは、海を渡るために、ワニ(サメ)をだまして皮をはがされてしまっていたのです。そこで、大国主命は、白うさぎを介抱し、傷を癒しました。白うさぎはそのお礼にと、呪力でヤカミヒメと結ばせました。しかし、そのことで兄の八十神たちは妬み、二度も大国主命を殺しました。しかし、その都度、母の御祖命(ミヤノミコト)の力で生き返りました。その後、スサノオノミコトが支配する「根の堅州国」に逃れていきました。

    (島根県出雲市)

  • 196-5宮本武蔵

    【歴史人物9】著書「五輪書」によれば、出生地は播磨国(兵庫県)ですが、美作国(岡山県)説もあり、定かではありません。13歳の時に初めて有馬喜兵衛なる人物と試合を行い、29歳までに60余回もの試合を行いましたが、すべて勝ったといわれています。また、慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いに宇喜多秀家隊の一員として参加しています。また、その後も豊臣氏滅亡の戦いである大坂の陣や寛永15年(1638)の島原の乱などにも従軍しています。寛永17年(1640)に、細川忠利に招かれて熊本へ移り、そこで客分として過ごしました。その後、寛永20年(1643)から現在の熊本市にある「霊巌洞」で「五輪書」を執筆し始めたといわれています。その二年後の正保2年(1645)に千葉城の自宅屋敷で亡くなりました。

    (岡山県美作市)

  • 【崇福寺】

    197-1三門

    【崇福寺】禅宗寺院の入口は「山門」といわず、「三門」とよぶことが多く、三解脱門(空門・無想門・無作門)の略であるといわれています。別名を竜宮門といいます。正面の楼上に「聖寿山」という崇福寺の山号が掲げられていますが、これは隠元禅師の筆です。嘉永2年(1849)の再建。国指定重要文化財。

    (長崎県長崎市)

  • 197-2内側からの三門

    【崇福寺】崇福寺三門をくぐると階段になっていて、振り返ると三門全体が見渡せます。説明板にも「中国趣味の極めて濃厚な珍しい建築様式である」と書かれてありましたが、日本人による建築だとのことです。

    (長崎県長崎市)

  • 197-3第一峰門への階段

    【崇福寺】三門をくぐり、階段をのぼった先に国宝の第一峰門が見えます。

    (長崎県長崎市)

  • 197-4第一峰門1

    【崇福寺】正面には「崇福禅寺」と書かれ、即非禅師の書による「第一峰」の扁額が掲げられています。二の門・中門・唐門・赤門・海天門などの別名があります。中国寧波で切り組み、唐船で運び、元禄9年(1696)ごろに建てられました。唐通事林仁兵衛(とうつうじはやしにへえ)の寄進によるものです。

    (長崎県長崎市)

  • 197-5第一峰門2

    【崇福寺】門をくぐり反対側から見た第一峰門です。正面には「海天華境」と書かれています。両側とも軒裏にみられる複雑な組物は、中国華南地方独特の組み方らしく、日本では唯一ここだけといわれています。

    (長崎県長崎市)

  • 197-6コウモリ

    【崇福寺】第一峰門の扉にはこのようにコウモリが描かれています。日本では不吉なイメージがありますが、コウモリは中国で「蝙蝠(ビエンフー)」と発音し、「蝠」が「福」と同じ発音であることから、中国人の最も好むもののひとつとされています。縁起物のひとつとして、中国ではよく使われるそうです。

    (長崎県長崎市)

  • 198-1回廊

    【崇福寺】朱塗りの柱が美しい回廊です。左手は国宝の大雄宝殿です。吉永小百合、渡哲也、両人が主演の映画「長崎ぶらぶら節」のポスターが撮影された場所です。

    (長崎県長崎市)

  • 198-2大雄宝殿

    【崇福寺】崇福寺の本堂です。大雄宝殿の「大雄」とは釈迦如来のことで、崇福寺の本尊も釈迦如来座像となっています。唐商何高材(かこうざい)なる人物の寄進によって、正保3年(1696)の創建で、長崎市内に残る最古の建物です。創建時は平屋建てだったとの事ですが、後に二階が付け加えられて現在に至っています。国宝(昭和28年3月31日指定・第一峰門も同じ)。

    (長崎県長崎市)

  • 198-3媽姐門

    【崇福寺】媽姐堂の前にあるので媽姐門(正式には媽姐堂門)とよばれています。「媽姐」(まそ)とは、海上安全守護の女神のことです。現在の建物は文政10年(1827)に再建されたものです。媽姐堂に対する門という役割と、仏殿と方丈を連絡する廊下も兼ねています。国指定重要文化財。

    (長崎県長崎市)

  • 198-4媽姐堂

    【崇福寺】海上安全の守護神、媽姐をまつっているのが媽姐堂(媽祖堂)です。唐人屋敷にある天后堂(媽姐の別名を天后聖母ともいいます)も媽姐堂のことです。創建時はこれよりも小さなお堂が建てられたとの事ですが、寛政6年(1794)に現在のお堂が建てられました。このように、境内に媽姐堂が建てられているのは長崎の唐寺の特徴だそうです。

    (長崎県長崎市)

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