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教科書に出てくるお寺

聖壽山
崇福寺
データ
所 在 地 長崎県長崎市鍛冶屋町7-5
山  号 聖寿山
正 式 名
別  名 福州寺
宗  派 黄檗宗
創  建 寛永6年(1829)
開  基 超然
開  山
本  尊 釈迦如来座像
おもな文化財
(建造物)
【国宝】
第一峰門 ・ 大雄宝殿

【国指定重要文化財】
三門 鐘鼓楼 護法堂 媽姐門

そ の 他 長崎三福寺
拝観案内
拝観料 大人300円
拝観時間 8:00〜17:30
但し、12月〜2月は17:00まで
交  通 JR長崎駅から市電正覚寺下ゆき「正覚寺下」電停下車
等持院醍醐寺


境内紹介
国宝建築2棟
大雄宝殿 第一峰門1
崇福寺の本堂です。大雄宝殿の「大雄」とは釈迦如来のことで、崇福寺の本尊も釈迦如来座像となっています。唐商何高材(かこうざい)なる人物の寄進によって、正保3年(1696)の創建で、長崎市内に残る最古の建物です。創建時は平屋建てだったとの事ですが、後に二階が付け加えられて現在に至っています。国宝(昭和28年3月31日指定・第一峰門も同じ)。
正面には「崇福禅寺」と書かれ、即非禅師の書による「第一峰」の扁額が掲げられています。二の門・中門・唐門・赤門・海天門などの別名があります。中国寧波で切り組み、唐船で運び、元禄9年(1696)ごろに建てられました。唐通事林仁兵衛(とうつうじはやしにへえ)の寄進によるものです。

内側からの三門 第一峰門への階段 第一峰門2 コウモリ
禅宗寺院の入口は「山門」といわず、「三門」とよぶことが多く、三解脱門(空門・無想門・無作門)の略であるといわれています。別名を竜宮門といいます。正面の楼上に「聖寿山」という崇福寺の山号が掲げられていますが、これは隠元禅師の筆です。嘉永2年(1849)の再建。国指定重要文化財。崇福寺三門をくぐると階段になっていて、振り返ると三門全体が見渡せます。説明板にも「中国趣味の極めて濃厚な珍しい建築様式である」と書かれてありましたが、日本人による建築だとのことです。 三門をくぐり、階段をのぼった先に国宝の第一峰門が見えます。 門をくぐり反対側から見た第一峰門です。正面には「海天華境」と書かれています。両側とも軒裏にみられる複雑な組物は、中国華南地方独特の組み方らしく、日本では唯一ここだけといわれています。 第一峰門の扉にはこのようにコウモリが描かれています。日本では不吉なイメージがありますが、コウモリは中国で「蝙蝠(ビエンフー)」と発音し、「蝠」が「福」と同じ発音であることから、中国人の最も好むもののひとつとされています。縁起物のひとつとして、中国ではよく使われるそうです。

回廊 媽姐門 媽姐堂 媽姐堂内部
朱塗りの柱が美しい回廊です。左手は国宝の大雄宝殿です。吉永小百合、渡哲也、両人が主演の映画「長崎ぶらぶら節」のポスターが撮影された場所です。
媽姐堂の前にあるので媽姐門(正式には媽姐堂門)とよばれています。「媽姐」(まそ)とは、海上安全守護の女神のことです。現在の建物は文政10年(1827)に再建されたものです。媽姐堂に対する門という役割と、仏殿と方丈を連絡する廊下も兼ねています。国指定重要文化財。 海上安全の守護神、媽姐をまつっているのが媽姐堂(媽祖堂)です。唐人屋敷にある天后堂(媽姐の別名を天后聖母ともいいます)も媽姐堂のことです。創建時はこれよりも小さなお堂が建てられたとの事ですが、寛政6年(1794)に現在のお堂が建てられました。このように、境内に媽姐堂が建てられているのは長崎の唐寺の特徴だそうです。 向かって右に順風耳、左に千里眼の立像があります。崇福寺の媽祖像は市内にある媽祖像の中でもで唯一衣装を着けており、数年に一度女性によって着せ替えられるのだそうです。唐船に祀る媽姐像は、長崎に在港中、唐船の船主たちによってこの媽姐堂に奉安されていました。堂内正面には、海の神様である媽姐が祀られています。現在でも、旧暦3月23日に華僑が盛大なお祭りをします。

媽姐門と方丈 護法堂 大釜 魚板
左手が媽姐門で奥に方丈が見えます。媽姐門が方丈へとつながる廊下になっていることが分かります。その向かって右手には、天和年間におきた飢饉の時に人々に粥をふるまうためにつくられたといわれている大釜があります。 左から天王殿、観音堂、関帝堂の三つの堂から成ります。左から韋駄天、観音、関帝(関羽)をまつっています。軸部を中国で切組んだものを唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと考えられています。享保16年(1731)完成。国指定重要文化財。 鍛冶屋町の鋳物師、安山弥兵衛によってつくられたと考えられている大釜です。重さは約1.2トン。一度に約10俵(630kg)、三千人分の粥が炊けたといわれています。第2代住持であった唐僧・千呆(せんがい)が、飢饉救済の施粥のために造りました。天和2年(1682)4月完成。 天保2年(1831)三門建築の棟梁大串五良平らが寄進したものです。お坊さんたちに飯時を告げる時にこれを叩いていました。お腹の部分が叩かれた跡でへこんでいます。木魚の原型で、中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)をかたどっています。くわえている玉は欲望を表しており、これを叩いて吐き出させるという意味があります。

0229等持院 0231醍醐寺
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