写真で見る日本の歴史
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271-7
咸宜園
西塾井戸
271-8
咸宜園
歌碑
272-1
今治城
今治城全景1
272-2
今治城
史跡今治城跡の碑
大分県日田市 大分県日田市 愛媛県今治市 愛媛県今治市
道を挟んで東と西に咸宜園はありましたが、西側(西塾)はこのように、当時北隅にあった井戸しか残されていません。しかし、当時の姿のままで残されており、井桁の石の一部が釣瓶で水をくみ上げた際に擦れてしまうため、減ってしまいくぼんでいるのが分かります。 西塾井戸の前にある歌碑です。元大分大学学長の花田大五郎氏が淡窓を敬仰して詠んだとのことです。「心静かに観ればみな宜しと うべ那ひて咸宜園とは名づけましけむ」 築城の名人、藤堂高虎によって築かれたお城です。三重の堀はすべて海水が引き入れられていて、船が直接入ることができていました。 現存するのは石垣と内堀のみですが、多くの櫓のほか、五層五階の天守閣が再建されています。
272-3
今治城
入口
272-4
今治城
烏帽子岩
272-5
今治城
今治城の堀
272-6
今治城
勘兵衛石
愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市
二の丸へと続く入口です。海水を引きいれた堀に架けられた橋を渡っていきます。正面に見える矢倉は再建された隅櫓のうちの一つ、山里櫓です。 安政2年2月、今治藩主松平定保が玉川町竜岡で鹿狩に行った際に使われた隠れ岩と伝えられています。 今治城の堀は、三重にめぐらされていて、北方水門から海水を引きいれています。現在でもたくさんの海水魚が泳いでいます。一番目につくのはチヌとボラで、サヨリやウナギ、エビなども生息しているとの事です。 家老で築城奉行だった渡邊勘兵衛の名にちなんだ石です。大手門鉄門見附北隅のこの地に置かれています。

272-7
今治城
矢野七三郎像

273-1
今治城
今治城全景2
273-2
今治城
武具櫓
273-3
今治城
御金櫓
愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市
今治綿業の父、青年実業家。安政2年(1855)越智郡宮脇村(今治市大西町大字宮脇)に矢野節太、美喜の長男として生まれました。幼名は通正。衰退していた今治の木綿織を近代化し、明治19年(1886)、興業舎を設立して伊予ネルの生産を開始しました。これが今治の有名なタオル生産につながっていく最初のきっかけだったということです。明治22年(1889)12月24日、自宅で就寝中に何者かに襲われ、35歳で亡くなりました。 今治城は藤堂高虎が慶長7年(1602)から慶長9年(1604)までの2年間をかけて築城しました。藤堂高虎の本拠地はその後、伊勢に移り、後に久松松平家が入城しました。今治城は全国的にも珍しく、堀が海水になっています。 二の丸西北隅にある櫓です。昭和55年(1980)に今治市制施行60周年記念事業の一環として再建されました。 二の丸東隅にある御金櫓は郷土美術館になっています。昭和60年(1985)に再建されました。
273-4
今治城
山里櫓
273-5
今治城
吹揚神社1
273-6
今治城
吹揚神社2
273-7
今治城
天守閣1
愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市
平成2年(1990)に今治市制施行70周年を記念して再建されました。山里櫓は古美術館となっていて、御金櫓とともに郷土ゆかりの美術品を展示しています。 明治5年(1872)に今治市内に鎮座していた神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮の四社を合祀して造られました。戦災により焼失、戦後復興されましたが、昭和55年(1980)に放火により再び焼失、その3年後の昭和58年(1983)に再建されたものが現存しています。 案内板によると、吹揚神社は「今治城本丸にあった藩主の「おたまや」に歴代藩主および旧今治の諸社を合祀して」いるそうです。現在の史跡指定されている今治城の城域は、この吹揚神社の境内地となっています。 鉄筋コンクリート造り5層5階の現在の天守閣は、創建時にあった天守閣の位置と推定されている場所と違ったところに建っています。そもそも、築城当時に天守閣があったという確証すらありません。ただ、一説によると、藤堂高虎が伊勢に移った際に、丹波亀山城に天守閣は移築されたといわれています。いずれにせよ、現在の天守閣は復元されたものではなく、模擬天守という分類になりそうです。
274-1
今治城
今治城全景3
274-2
今治城
山里櫓と武具櫓
274-3
今治城
天守閣入口
274-4
今治城
天守から山里櫓
愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市 愛媛県今治市
中央に見える天守閣は移築したと伝わる丹波亀山城の天守閣古写真を参考に造られたものです。ただ、このような天守が存在していたという確かな証拠はなく、また位置も今日の場所とは違うところだったと伝えられています。 海水を引きこんだ堀がみられます。山里櫓は手前の建物、武具櫓が奥になります。山里櫓の手前に架かる橋が山里曲輪と本丸を結ぶ橋になります。 天守閣内部は6階建てになっていて、管理事務所がある1階を経て2階からは展示室になっています。歴史関連の展示のほか、今治の地場産業であるタオルの展示や、その他地域を紹介する展示が行われています。 再建された櫓のうち、天守閣から最も近い位置にある櫓がこの山里櫓です。それぞれの方角に多聞櫓が伸びていますが、途中で切れています。往時はずっと伸びていたのでしょうか。
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