写真で見る日本の歴史
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097-6
松山城
本丸
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松山城
井戸
097-8
松山城
巽櫓
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松山城
馬具櫓
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
松山城天守閣の最上階から撮影しました。本丸は南北に細長いつくりになっています。
天守閣がそびえる勝山(海抜132m)にかつてあった二つの峰を埋め立てて本丸の敷地をつくった時に元々あった泉を利用してつくられたといわれています。深さは44.2mあります。上屋は戦災で焼失。その後、再建されました。
巽の方角(南東)にある隅櫓です。昭和20年(1945)に戦災で焼失しましたが、昭和60年(1985)に古い資料に基いて再建されました。
この櫓も戦災で焼失しました。昭和33年(1958)に再建されました。現在は、松山城防災施設の総合操作室として使用されています。
097-10
松山城
天守群
098-1
松山城
一ノ門
098-2
松山城
二ノ門
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松山城
三ノ門
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
天守閣は3層3階地下1階で、江戸時代から現存する天守閣のうち最も後期に建設されました。手前に見える大きな櫓は天守閣に次ぐ大きさと防衛上の重要性から小天守閣とよばれています。天守閣群は本壇とよばれる本丸よりも一段高い位置にあります。
本壇の入口にあたるのでこの名がついています。天明4年(1784)の落雷によって天守閣とともに焼失しましたが、天明6年(1786)には再建されました。重要文化財。
一ノ門を突破された後に控える門です。一ノ門と同じく、天明4年(1784)の落雷で焼失しました。こちらは、安政元年(1854)に再建されました。重要文化財。
この門も二ノ門と同じく、天明4年(1784)焼失、安政元年(1854)再建。重要文化財。
098-4
松山城
三ノ門南櫓
098-5
松山城
筋鉄門
098-6
松山城
天神櫓
098-7
松山城
内門
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
一ノ門・二ノ門・三ノ門を防衛する役目を持つ一重の隅櫓です。特に、三ノ門を射撃する位置にあり、重要な櫓です。天明4年(1784)焼失、安政元年(1854)再建。重要文化財。
本壇中庭へと通じる入口にあります。この奥は、櫓に囲まれた中庭になっていて、小天守閣や天守閣の入口があります。この門の櫓は小天守閣と天守閣を結ぶ通路になっています。門柱に鉄板が張ってあるので、この名が付いています。
本壇の櫓群の中では、天神櫓は戦略的な意味の少ない櫓です。見たとおり、神社風の建物ですが、それは鬼門である東北にあたるためで、城の安泰を祈るため、天神(菅原道真)を祭っているからです。
天守閣の西側にあります。天明4年(1784)焼失、安政元年(1854)再建。昭和8年(1933)放火により焼失。昭和43年(1968)に再建。
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松山城
小天守閣
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松山城
大天守閣
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松山城二之丸史跡庭園
黒門口登城道
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松山城二之丸史跡庭園
二之丸入口
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
天守閣から撮影。天守閣に次ぐ重要な二層二階の櫓です。創建当時は着見櫓といわれていましたが、この櫓も天明4年(1784)に焼失し、安政元年(1854)に再建されました。この再建された小天守閣は、昭和8年(1933)に放火によって焼失しました。現在の姿に再建されたのは、昭和43年(1968)です。
天明4年(1784)に焼失した後、天保6年(1835)に再建され、現在に至っています。江戸時代から現存する天守閣のうち、最も後期に建てられたものです。その後は、昭和8年(1933)の放火にも燃えずに残り、現在に至っています。
松山城の本丸や天守がそびえる勝山の麓にあります。写真は本丸から二の丸へ下っていく道。リフトやロープウェイを利用せず、歩いて麓まで行くわけです。
麓にある二の丸はかつて領主の居館がありました。また、明治維新後は一時、藩庁や県庁として利用されましたが、明治5年(1872)に火災によって焼失してしまいました。平成4年(1992)5月、「二の丸跡の遺構を保護・保存するとともに、香り高い文化を発信する場として、ここを訪れる人々が四季折々に親しめる『やすらぎの空間』」として建設されたとの事です。
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松山城二之丸史跡庭園
聚楽亭
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松山城二之丸史跡庭園
奥御殿跡流水園
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松山城二之丸史跡庭園
水琴窟
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松山城二之丸史跡庭園
大井戸
愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市 愛媛県松山市
「観恒亭」「勝山亭」とこの「聚楽亭」は、二之丸庭園内の有料施設で、茶会や句会などの文化的な行事に利用されています。
古い絵図や発掘調査に基いて、二之丸内にあった表御殿と奥御殿は間取りが遺構の上に再現されています。表御殿は、その中に柑橘類や四季折々の草花を植えた「表御殿跡柑橘草花園」に、奥御殿は流水を使った「奥御殿跡流水園」になっています。
中はつりがね状のかめを地中に埋め込んであるため空洞になっています。手水鉢から地中にある空洞へ水滴が落ちると、受け皿の水面を打つ音が内部で反響しあって、きれいな音が竹筒を通して聞こえる仕組みになっています。江戸時代中期に考案されたと伝えられています。
東西18m・南北13m・深さ9m。大井戸の東半分には邸がせり出して建てられていました。その基礎部分の建材は現在でも残っているそうです。この井戸へ降りる階段は三ヶ所あったとする古い絵図もあります。昭和59年(1984)に松山市教育委員会によって発掘・調査されました。
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