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091-2
壬生新選組史跡
近藤勇像 |
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091-3
壬生新選組史跡
芹沢鴨の墓 |
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091-4
壬生新選組史跡
阿比原栄三郎他7名の墓 |
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091-5
壬生新選組史跡
河合耆三郎の墓 |
京都府京都市中京区 |
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京都府京都市中京区 |
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京都府京都市中京区 |
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京都府京都市中京区 |
武蔵国の郷士、宮川久次郎の末子として生まれました。幼名は勝五郎。嘉永元年(1848)に近藤周助の試衛館に入門しました。後に近藤家の養子に迎えられ、勇と名乗り天然理心流四代目となりました。以後の活躍は述べるまでもありません。新政府軍に捕らえられ、最期は斬首されました。
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芹沢鴨は水戸出身で神道無念流の免許皆伝の剣客でした。新選組の前身の壬生浪士組では筆頭局長でした。しかし、素行が悪かったらしく、また近藤勇をはじめとする試衛館のメンバーと対立するようになっていきます。芹沢派と近藤派の対立が深まる中文久3年に壬生の八木邸で就寝中に土方歳三・沖田総司・原田佐之助・山南敬助によって暗殺されました。墓碑銘には芹沢のほか平山五郎の銘もありますが、平山も芹沢と同じ水戸脱藩の浪士で、芹沢と同じく暗殺されました。このとき、生き残った芹沢派の平間重助は、水戸の芹沢家に芹沢鴨の死を知らせ、その後は芹沢鴨を弔いながら余生を送りました。以後は、近藤勇が局長となりました。
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7人の詳細は次の通りです。阿比原栄三郎(副長助勤)、田中伊織、野口健司(副長助勤)、奥沢栄助(伍長)、安藤早太郎(副長助勤)、新田革左衛門(平隊士)、葛山武八郎(伍長)。このうち田中伊織は、芹沢派のナンバー2、局長の新見錦の変名といわれていますが、定かではありません。
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河合耆三郎は、新選組勘定方でした。50両の金を紛失するという事件をおこしたため、斬首に処せられたとされていますが、この紛失という件については不明な点も多く、実際はどのような咎だったのかは定かではありません。ただ、この墓は河合の死を悼んだ親族一同が建てたものですが、葬儀では五十両の金を紛失した罪で処刑されたことを恨み、新選組に対して当てつけるかのように千両箱を積んだ馬を引き連れて来たという話が残っています。
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092-1
富山城
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092-2
富山城
新旧比較図 |
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092-3
富山城
お堀 |
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092-4
富山城
佐藤記念美術館 |
富山県富山市 |
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富山県富山市 |
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富山県富山市 |
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富山県富山市 |
天文12年(1543)、越中守護代神保氏が重臣水越勝重に命じて築城させたといわれています。天正9年(1581)に佐々成政が入城して越中一国を治めましたが秀吉に敗れました。その後は、前田利家の持ち城となりました。寛永16年(1639)に加賀藩3代藩主の前田利常の次男、前田利次が10万石を分与されて富山藩主となり、以後前田家13代の後、明治維新を迎えました。現在、写真に見られる模擬天守閣は昭和29年(1954)の富山産業大博覧会の時に、旧鉄御門の石垣上に建設されたもので、現在は郷土博物館として利用されています。
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新旧の比較図です。当時とまったく違うことが分かります。本丸があったところを中心に富山城跡公園が広がっています。現在の県庁がある辺りはかつては神通川が流れていたことが分かります。
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明治維新後は、富山城の建物は徐々に解体され、堀も埋め立てられていきました。また、残った建物も再三の大火や富山大空襲によって失われてしまいました。この堀は戦後のものです。
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この櫓風の建物は、富山県砺波市出身の実業家、故佐藤助九郎氏が中心となり、昭和36年(1961)に開館した佐藤美術館です。その後、昭和38年(1963)に富山美術館、平成10年(1998)に富山佐藤美術館と改称されました。館内には展示室のほかに、茶人でもあった佐藤助九郎氏の茶室「助庵」「柳汀庵」と総桧造りの書院座敷が佐藤家より移築され、現在、佐藤記念美術館として運営されています。
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092-5
富山城
模擬天守 |
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092-6
富山城
前田正甫の像 |
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093-1
国宝建築
法隆寺金堂 |
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093-2
国宝建築
三十三間堂 |
富山県富山市 |
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富山県富山市 |
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奈良県奈良市 |
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京都府京都市東山区 |
鉄筋コンクリート造り、3層4階建ての模擬天守閣は、昭和29年(1954)、戦災復興事業の完了を記念して開催された、富山産業大博覧会のシンボル建築物として建設されました。博覧会終了後から、富山市郷土博物館として開館しました。現在は、歴史系の博物館に特化され、佐藤記念美術館との一体運営がなされています。
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二代目藩主、前田正甫公は越中売薬の祖として有名です。製薬で有名な富山、越中富山の薬売りの草分けといってよいでしょう。元禄3年(1690)、江戸城内で正甫公の取り出した薬で三春(福島県)藩主、秋田河内守の腹痛を治したことがきっかけで、薬の販売を諸国の大名が求めたことから始まりました。この時の薬を反魂丹といいます。その製薬は松井屋源右衛門、行商は八重崎屋源六なる人物が行いました。 |
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建築は7〜8世紀にさかのぼるといわれており、世界最古の木造建築といわれています。内部に描かれている壁画は古代インドのアジャンタ石窟寺院の壁画ともよく似ていることから、大陸の影響を強く受けていることが分かります。しかし、昭和24年(1949)に解体修理中に持ち込まれた電化製品から出火し、壁画の一部を焼くということも起こりました。法隆寺地域の仏教建築物として、ユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
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文永3年(1266)の建築で、現在までに室町・桃山・江戸・昭和とそれぞれの時代に大修理が施され、現在に至っています。入母屋・本瓦葺きで和様とよばれる建築様式では代表的なもの。総檜造りのこの建物は、柱間が33あることからこの名がつけられました。長さは120m以上もあります。正式には蓮華王院本堂といいます。
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093-3
国宝建築
慈照寺銀閣 |
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093-4
国宝建築
清水寺本堂 |
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093-5
国宝建築
平等院鳳凰堂 |
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094-1
東大寺
南大門 |
京都府京都市東山区 |
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京都府京都市東山区 |
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京都府宇治市 |
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奈良県奈良市 |
長享3年(1489)に建立されました。こけら葺き二層建てで、1階は心空殿、2階は潮音閣とそれぞれ呼ばれています。建築様式としては、1階が書院造なのに対し、2階は華橙窓にも見られるように禅宗様でつくられています。この慈照寺(銀閣寺)の中で、永禄元年(1558)の兵火にも耐えた建物はこの銀閣と東求堂のみで、ともに国宝に指定されています。実際には銀箔は張られませんでしたが、鹿苑寺の金閣に対して銀閣とよばれるようになりました。尚、金閣は昭和25年に放火によって一度焼失しているため、国宝はおろか文化財指定ですらありません。
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「清水の舞台」として有名です。観光地としても定番です。清水寺は、あの桓武天皇と同時代に生きた征夷大将軍、坂上田村麻呂で有名な坂上氏の氏寺で、創建もその時代にさかのぼります。現存するこの本堂は、寛永10年(1633)に江戸幕府3代将軍徳川家光の寄進によって再建されたものです。特徴的なのは崖にはみ出した桧舞台ですが、これはその名の通り、本尊の千手観音像に対して奉納する舞楽・芸能などが演じられる場所で、現在でも重要な法要の時はこの舞台でそれらが演じられています。「舞台造り」とよばれており、舞台から崖下までは12メートル以上もあります。思い切ったことをする事の例えに、「清水の舞台から飛び降りるつもりで、、、」とよくいわれますが、実際に飛び降りることが不可能なのは、行けば誰でも分かることでしょう。
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末法到来の年と予言された1052年に藤原頼通が父である藤原道長の別荘を寺院に改めたのが平等院の始まりです。鳳凰堂とよばれているこの建物は、その翌年に阿弥陀如来像を安置するために建立された阿弥陀堂です。定朝作の阿弥陀如来像(国宝)が安置されている中堂と左右の翼廊、背面の尾廊から成り立っています。中堂の屋根には鳳凰が飾られており、また、その姿が鳳凰が羽を広げたようなさまに例えられることから鳳凰堂と呼ばれるようになりました。10円玉にも描かれている建物として有名です。内部は絢爛豪華な装飾が施されています。中尊寺金色堂(岩手県)や富貴寺大堂(大分県)とともに日本三大阿弥陀堂に数えられています。
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南大門はそのお寺の正門であることが普通ですが、東大寺の南大門も例外なく現在も正門として存在します。この門は五間の幅があります。治承4年(1180)の平重衡による兵火のため、東大寺の伽藍が焼失した後、その復興造営のひとつとして建てられました。大勧進の職に就いて復興造営の総指揮を執った俊乗坊重源上人らによって、正治元年(1199)に上棟、数年後に完成しました。国宝。
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094-2
東大寺
金剛力士像1 |
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094-3
東大寺
金剛力士像2 |
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094-4
東大寺
鏡池 |
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094-5
東大寺
中門 |
奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
南大門の両側には木造の金剛力士像が安置されています。これは阿形(あぎょう)の金剛力士像で口を開けているのが分かります。檜をそれぞれパーツごとに彫り上げ、最後にパズルのように組み合わせてつくる寄木造りという方法で造り上げていますので、一度に多くの人が制作に携わることができ、また木造でありながら巨大な彫刻をつくることができます。実際、運慶・快慶ら20名ほどの慶派の仏師たちが建仁3年にわずか69日間で完成させたといわれています。
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吽形(うんぎょう)の金剛力士像。反対側とちがって口を閉ざしています。二つ合わせて「阿吽(あうん)の呼吸」というわけです。尚、東大寺の金剛力士像は他のお寺とちがって、阿形と吽形の像が逆になっているとの事です。
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南大門から中門へ向かう道の脇にあります。ここには天然記念物の馬魚がいます。伝承によると、延元元年(1336)に後醍醐天皇が吉野に逃れる際、天皇が乗っていた馬が嘶く(いななく)ことで追っ手から所在がばれるのを恐れたため、馬の首を切り落としたとき、その首が転がって池に落ちて馬魚になったとの事です。その時の池は内山永久寺というところの本堂池で、後に鏡池に放されました。
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この門は本尊の盧遮那仏(奈良の大仏さん)が安置されている金堂(大仏殿)への正門です。この門をくぐると周りは回廊で囲まれており、東大寺の中枢になっていることが分かります。国指定重要文化財。
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