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014-2
広島城
広島大本営跡 |
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014-3
広島城
天守閣 |
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015-1
唐招提寺
南大門 |
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015-2
唐招提寺
戒壇 |
広島県広島市中区 |
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広島県広島市中区 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
明治27年(1894)の日清戦争後、それまで、山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件によって、同年広島市に大本営がうつされました。ここには当時第五師団司令部の建物があり、そこが明治天皇の行在所とされました。その後も、広島大本営跡として保存されていましたが、原爆によって建物は倒壊し、今は礎石のみが残されるにとどまっています。
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高さ39メートル。天守台からの高さは27メートル。広島城の天守は、五重の大天守とその南と東に三重の小天守を従えた連立式天守でした。これほどまでの壮大な構成は、関ヶ原の合戦以前では類例がなく、天下無双のものであったといわれています。昭和9年に国宝に指定されましたが、原爆で倒壊。昭和33年に大天守のみの復元となりましたが、かつての壮麗さを再現しています。
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天武天皇の皇子、新田部親王の旧邸地を賜って建立されたのがはじまりです。759年建立。寺名は唐の国から来朝した鑑真和上の招提(御仏のもとに修行する人たちの場=寺院)という意味です。
南大門は鑑真和上千二百年遠忌を機とする寺院復興事業として天平様式に再建されたものです。
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戒壇とは僧侶になるための授戒の儀式を行なう壇のことです。754年、同じく鑑真和上が東大寺に設けた戒壇としばしば対比されます。外構は失われていますが、その厳粛さはひしひしと伝わってきます。
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015-3
唐招提寺
講堂 |
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016-1
唐招提寺
宝蔵 |
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016-2
唐招提寺
鑑真和上御影堂 |
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016-3
唐招提寺
鑑真和上御廟 |
奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
講堂は平城宮からの移築です。現存する平城宮の建築物は、この講堂のみですので、その文化的価値は非常に高いと考えられます。堂内には、本尊の弥勒如来(鎌倉時代)および、持国天・増長天が安置されています。
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隣の経蔵と同じく校倉造です。経蔵は、同じく校倉造で有名な正倉院宝庫よりもさらに古く、わが国現存最古の校倉です。
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この御影堂は興福寺旧一乗院門跡の遺構を復原移築したものです。この奥には鑑真和上の尊像が安置されていますが、6月6日の開山忌前後の3日間のみの公開です。
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御影堂の東隣、東門近くのひとしお清淑な場所に小門があります。その門をくぐり、小さな池をこえた奥に、鑑真和上の御廟がひっそりとありました。
鑑真(688-763)
律宗の開祖。日本の学問僧の要請に応じて5回の渡航失敗と失明にも負けず、753年来日。
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017-1
西大寺 |
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017-2
西大寺
四王堂 |
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017-3
西大寺
本堂 |
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017-4
西大寺
東塔跡 |
奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
真言律宗の総本山。奈良時代には南都七大寺に数えられ、東大寺に対する西の大寺として繁栄しました。称徳天皇の発願で、金銅四天王像を安置するため、765年に伽藍を開きました。叡尊がはじめたといわれる大茶盛が現在でも催されるほど有名です。
叡尊(1201〜1290)
「えいそん」鎌倉時代、戒律復興を志し奈良西大寺を復興。蒙古襲来の時は敵国降伏を祈願して神風を起こしたといわれている。
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『西大寺資材流記帳』によると765年の創建時に七尺の金銅四天王像をつくって四王堂に安置したとあります。現在の四天王堂には、藤原時代の十一面観音像を取り囲んで、銅像の四天王像があります。
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現在、西大寺の建物に文化価値が高いものはありませんが、四天王像の現存をはじめ、吉祥天像・本尊の十一面観音像などの彫刻が有名です。このように度重なる罹災でいくつかの小堂が残るだけになってしまいましたが、荘厳な雰囲気はかつて大寺であったとおもわれる面影を感じさせます。
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西大寺が、かつて東大寺と並び称されるほどの大伽藍を誇ったとおもわれる面影がここに見られました。1235年、叡尊が住持して教学の復興をはかった時代から室町時代初期が最も西大寺が隆盛を誇っていた時代でした。1502年兵火罹災以後は、衰退していきましたが、現在も真言律宗の総本山としての地位を保っています。
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018-1
平城宮跡1
朱雀門 |
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018-2
平城宮跡1
再建された朱雀門 |
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018-3
平城宮跡1
いにしえの・・ |
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019-1
平城宮跡1
朝堂院 |
奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
平城京(710年遷都)は、唐の都長安を模して造営されました。都の中央には南北に貫く朱雀大路があり、その先の平城宮入口には朱雀門と呼ばれる立派な門がありました。
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写真は、1998年に当時あった場所に再建されたものです。 |
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いにしへの奈良の都の
八重桜
けふ九重ににほひぬるかな
伊勢大輔
「昔の奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で美しく咲きほこっています。」八重桜は平安時代の京都では珍しく、奈良の都、すなわち忘れ去られた古都というイメージがあります。
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所在地 奈良県奈良市
特別史跡
右側は、第一次朝堂院跡になります。朝堂院とは、儀式や集会が行なわれていたところです。奥には大極殿や内裏(天皇の住まい)がありました。遠くに見えるのは朱雀門です。
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019-2
平城宮跡1
大極殿跡 |
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019-3
平城宮跡1
兵部省跡 |
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019-4
平城宮跡1
和同開珎100枚 |
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020-1
唐津城 |
奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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奈良県奈良市 |
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佐賀県唐津市 |
「ダイコク」の芝とよばれて土壇が残っていたため、明治以降、大極殿跡と考えられていました。大極殿は天皇の即位、正月元旦の朝賀など国家的行事の時に天皇の座が置かれる建物です。
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唐の律令制度にならって、二官八省の官制がしかれました。このうち、兵部省は奈良時代の防衛庁とでもいえるところです。朱雀門をくぐってすぐの右側にあります。奥は、式部省(現在でいえば人事院か)がありました。現在、近鉄奈良線が奥を通っているのが見えると思います。写真でみて、右側は近鉄奈良駅方面、左側は近鉄西大寺駅方面になります
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奈良時代から平安時代中期にかけてつくられた十二種類の銭貨(皇朝十二銭)のひとつです。708年、武蔵国から和銅を献上したので、政府は年号を和銅と改め、銅銭を鋳造しました。あまり流通せず、出土地は畿内とその周辺地域に集中しています。
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築城者 寺沢広高
(慶長13年・1608年)
中国(唐)へ渡る最短の港(津)である交通の要地に寺沢志摩守広高が7年の歳月をかけて築城しました。築城にあたっては、肥前名護屋城の解体資材を用いたといわれています。寺沢氏の後は、大久保氏、松平氏、土井氏そして天保の改革で有名な水野忠邦が藩主を務めた水野氏の時代を経て、次の小笠原氏の時に明治維新を迎えました。
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