写真で見る日本の歴史
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001-1
飛鳥、謎の石造物
猿石@
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飛鳥、謎の石造物
猿石A
002-1
飛鳥、謎の石造物
亀石
002-2
飛鳥、謎の石造物
酒船石
奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村
欽明天皇陵の南側、吉備姫王(孝徳天皇や皇極天皇の生母にあたり、大化の改新で有名な中大兄皇子の祖母にあたる)の陵に置かれています。江戸時代に付近の水田から出土。4体のうち、3体は裏にも顔があるそうです。その形から、向かって左から「僧」「男」と呼びならわれています。 同じく、向かって左から「女」「山王権現」といわれています。一体誰が、何の目的で製作したのか、成立年代や作者などは一切不明です。石塔の四隅に置かれて、邪悪なものから塔を守る神だったという説、中国から伝わった仮面劇、伎楽に出てくる仮面を表したものとする説など、さまざまです。 亀に似た彫刻がなされています。亀石は以前は北向き、次に東向きにしました。現在は南向きに面していますが、西向きになると、大和一面が大洪水となり、泥の海となるいわれています。見た目はとてもユーモラスですが、成立年代や作者などは一切不明です。 平らにした石の表面には、謎の模様が。酒造りに使用されていたとの説がありますが、導水施設との説も最近浮上しています。付近で亀形の石造物が発見されましたが、それと併せて水を流すのに使用された可能性があるらしいです。
 
003-1
飛鳥、謎の石造物
鬼の雪隠
003-2
飛鳥、謎の石造物
鬼の俎
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伝飛鳥板蓋宮跡
@
004-2
伝飛鳥板蓋宮跡
A
奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村
昔、この近くに住む鬼が人を襲い、食べるため、料理に使用したといわれているのが、鬼の俎(まないた)です。その後に雪隠(せっちん)で用を足したそうですが、、、俎の上に雪隠をかぶせると、小部屋のようになります。2つの石造は近くにありますので、おそらく、そのように組み合わせて、使用されていたのではないかといわれています。
雪隠と俎を組み合わせると、古墳の石室にぴったりです。このように、古墳が各地に点在していますので、こうした石造物があるのだと思われます。例えば、近くには、天智天皇の弟で、壬申の乱(672年)で勝利した大海人皇子(天武天皇)と、その后で「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」の作者で有名な持統天皇の合葬陵があります。
皇極天皇がつくったとされる飛鳥板蓋宮は、645年の蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)の舞台となったところですが、その遺構の上の層、すなわち現在地表に表れているものは、天武天皇(天智天皇の弟。壬申の乱で勝利した大海人皇子)の時代の飛鳥浄御原宮であった可能性が高いそうです。この写真から堀立柱の遺構ということがわかりますが、当時はまだ、礎石を利用した建築法は知られておらず、そのため建物のおもに土台にあたる部分は、腐食が早かったといえます。
遺跡名に「伝」とついているのは、発見当初から板蓋宮跡であるという保証がなかったからと聞きます。また、飛鳥時代当時の宮は飛鳥地方を中心に、天皇の代が替わるたび、または在位中にさえ頻繁に位置を変えていましたので、全ての宮について正確な位置が判っているわけではないのです。そのため、この遺跡の位置にも判っているだけで4つの宮があったといわれています。すなわち、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮の4つです。但し、これも断定ではありません。
005-1
石舞台古墳
005-2
石舞台古墳
石室入口
005-3
石舞台古墳
復元石棺
006-1
飛鳥寺
奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村
もとは上円下方墳だったと推定されています。もり土が失われ、巨石を利用した玄室が露出した形で残されています。1933、34、54年と調査が行なわれ、墳丘の規模が確認されました。すなわち、墳丘は一辺51メートルで、周囲には、南北83メートル、東西81メートルの外堤をもっていたことなどが分かりました。現在は明日香村にあるもののうち、飛鳥時代を代表する遺跡として、周辺がよく整備されて残っています。
このように、玄室の中に入られるようになっています。いわゆる横穴式石室で、全長は19,7メートル、玄室は長さ7,7メートル、幅は約3,6メートルという、全国でも屈指の巨大なものです。古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族、蘇我馬子の桃原墓(日本書紀巻第二十二 推古天皇三十四年「大臣・・・桃原墓に葬る」)であるとの説が最も有力視されています。
発掘調査では、石棺は残念ながら発見されませんでした。しかし、平らに加工した凝灰岩の破片が見つかりました。このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして復元されたものが、この復元石棺です。さらに7世紀前半の頃と思われる須恵器片も発見されましたが、こうした発掘結果から照合してみても、桃原墓説は有力だと考えられます。
日本最初の本格的な仏教寺院。596年に蘇我馬子が建立。初めは「法興寺」(日本で最初に仏法が興った寺の意)と呼ばれていました。飛鳥寺は蘇我氏の氏寺として隆盛を誇っていましたが、蘇我氏滅亡(645年)の折より衰退をはじめました。後に「元興寺」と呼ばれていましたが、平城遷都にともなって、718年に平城京へ移築されました。しかし移築後は、南都七大寺にかぞえられる程に繁栄しました。
006-2
飛鳥寺
安居院
006-3
飛鳥寺
飛鳥大仏
006-4
飛鳥寺
西門
006-5
飛鳥寺
遠景
奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村 奈良県高市郡明日香村
現存する飛鳥寺の建物は、この安居院(あんごいん)のみです。建物自体も小さく、蘇我氏の氏寺として日本で最も大きな寺であった面影は全くといっていい程ありません。しかし、本尊の飛鳥大仏は飛鳥文化でも重要な仏像であり、文化史上欠かせないものといえます。
飛鳥寺安居院内には、現存する日本最古の仏像の、飛鳥大仏が安置されています。丈六釈迦如来坐像です。飛鳥寺の本尊として鞍作止利(鞍作鳥、止利仏師、生没年不詳。渡来人司馬達等の孫。)によって造られました。北魏様式とよばれ、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇がみられるなど、飛鳥時代の仏像の典型的特徴を持っています。しかし、これほどまでの貴重な文化財が、かつて雨ざらしで藁がかぶせられ、放置されていた時代も存在したといわれているのです。ちなみに、同じ鞍作止利によるといわれる法隆寺釈迦三尊像の方は国宝で、写真撮影はもってのほかです。
「槻(ケヤキの古名)の木の広場」があったといわれる飛鳥寺西門。ここは『日本書紀』にも事あるごとに出てくる有名な所です。かつて、この広場で中大兄皇子が蹴鞠をしていた最中、履が脱げ、すかさず拾い上げた中臣鎌足。これをきっかけに気の置けない仲となった二人は、蘇我氏を打倒し、大化の改新を後に成し遂げることとなりました。また、壬申の乱の時には、ここに近江軍(大友皇子側)の穂積百足の軍営があり、広場は兵で埋め尽くされました。
飛鳥地方を一望できる甘樫丘から撮影。このように飛鳥寺をも見下ろす絶好の場所にはかつて、蘇我氏の居館がありました。645年、蘇我入鹿暗殺の日、父の蘇我蝦夷は屋敷に火を放ち、自殺したといわれています。 
007-1
大和三山
畝傍山
007-2
大和三山
耳成山
007-3
大和三山
香久(具)山
008-1
薬師寺
奈良県橿原市 奈良県橿原市 奈良県橿原市 奈良県奈良市
海抜192メートル。山麓には有名な橿原神宮があります。藤原京跡を囲むように三角形をなして位置する大和三山のうち、畝傍山は西側になります。
この三枚の写真は、ともに甘樫丘より撮影。甘樫丘は645年に暗殺された蘇我入鹿の父にあたる蘇我蝦夷らが居館を構えた場所で、このように飛鳥一円を望めるほど非常に眺めがよい。
北に位置する耳成山は、海抜140メートルの小高い丘です。大和三山の中でも美しい姿をしたこの山は、その姿からもまた、三角形の要という、その絶妙な場所からも分かるように、人工ピラミッド説がささやかれている程です。ちなみに、エジプトの、ギザのピラミッドの中でも最大とされるクフ王のものは、高さが146メートルです。
海抜152メートル。天の香久山といわれるように、天に通じる神聖な山とされていました。歌枕としても有名であり、数多くの歌に詠まれています。

春過ぎて 夏来にけらし
白妙の

衣干すてふ 天の香久山

香久山と 耳成山と
あひし時

立ちて見に来し 印南国原
「南都七大寺」のひとつ、白鳳期創建の薬師寺は法相宗の大本山として有名です。当時(7世紀後半〜8世紀)飛鳥時代と違った清新な文化が栄えました。これを白鳳文化といいます。薬師寺は中門をくぐると、東西にひとつずつ同じ形をした塔があります。
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