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  • 1700から1501-1520件を表示
  • 268-6旧唐人屋敷門

    【東明山興福寺】この門は旧唐人屋敷(長崎の中国人居住区)にあったもので、昭和35年(1960)に永久保存を目的にここに移築しました。材料(建材)は中国特産の広葉杉とのことで、また、建築様式も中国風であることから、日本にある純中国建築ということがいえます。

    (長崎県長崎市)

  • 269-1興福寺寺域

    【東明山興福寺】興福寺は、日本最初の唐寺です。黄檗宗に属します。開基は江西省出身の真円(眞圓)で、二代目住職は、あの眼鏡橋を架けたといわれている黙子如定です。黄檗宗の開祖、隠元が来日して初めて入ったお寺がこの興福寺だったので、日本における黄檗宗発祥地としても有名になっています。

    (長崎県長崎市)

  • 269-2媽姐堂

    【東明山興福寺】「媽姐(まそ・まぁずぅ・ぼさ)」とは中国で信仰された海上安全守護の女神です。また、天妃、天后聖母、菩薩、老媽などの呼び名もあります。鎖国時代も中国と交易を続けてきた長崎ならではで、このような媽姐堂があるのは長崎の唐寺だけの特徴です。貿易に従事した唐船には船魂神として媽姐の小像をまつり、長崎停泊中は媽姐堂に奉安していたそうです。

    (長崎県長崎市)

  • 269-3媽姐堂内部

    【東明山興福寺】媽姐堂は寛文3年(1663)の大火の後、宝永3年(1706)に再建されました。県指定有形文化財。中央に媽姐を奉り、それを守護して「順風耳」と「千里眼」の二鬼神の像が立っています。「順風耳」は大きな耳で、あらゆる悪の兆候を聞き分けていち早く媽姐に報告するのが役目。また「千里眼」は媽姐の住む先やその回りを監視して、あらゆる災害から媽姐をまもる役目をそれぞれ持っているとの事です。

    (長崎県長崎市)

  • 269-4魚板

    【東明山興福寺】興福寺の僧らの飯時を告げるために叩く板の魚です。揚子江に棲むといわれているまぼろしの魚けつぎょ)をモデルに作られています。何百年もの間叩かれていたので、腹部がへこんでいるそうです。

    (長崎県長崎市)

  • 269-5三江会所門

    【東明山興福寺】「三江会」とは江南省、江西省、浙江省の三省の出身者が明治11年(1878)につくったものです。事務所は興福寺内に置かれていました。明治13年(1880)に三江会の集会所として三江会所が建てられました。母屋は昭和20年(1945)の原爆で大破。門だけがこのように現存しています。県指定有形文化財。

    (長崎県長崎市)

  • 269-6中島聖堂遺構大学門

    【東明山興福寺】儒学者向井元升(むかいげんしょう)が正保4年(1647)に設立した孔子廟と学舎は、寛文3年(1663)の市中大火で焼失したので、正徳元年(1711)に中島川沿岸に移築再建されました。長崎聖堂と称していたのですが、地名をとって中島聖堂とよばれていました。もともとはこの中島聖堂の門だったものです。明治以降は規模が縮小され、ついにこの門も昭和34年(1959)に保存のため現在地に移築を余儀なくされました。県指定有形文化財。

    (長崎県長崎市)

  • 【旧長崎医科大学正門】

    270-1正門跡

    【旧長崎医科大学正門】原子爆弾による被爆当時、長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)の正門だった門柱がのこされています。爆風によって浮き上ったままの姿をとどめる原子爆弾の遺構のひとつです。

    (長崎県長崎市)

  • 270-2正門左

    【旧長崎医科大学正門】隣の碑文には、「原爆の爆風の物凄さを今尚ここに見る」とあります。長崎医科大学とあるこの旧正門の門柱は、原爆の爆風によって浮き上り、傾きました。

    (長崎県長崎市)

  • 270-3説明板

    【旧長崎医科大学正門】碑文「1945年、昭和20年8月9日、よく晴れし日の午前11時2分、世界第二発目の原子爆弾により、一瞬にして、わが師、わが友850有余名が死に果てし長崎医科大学の正門門柱にして、被爆当時のままの状態を生々しく此処に見る。」

    (長崎県長崎市)

  • 270-4正門右

    【旧長崎医科大学正門】右側には「付属薬学専門部」とあります。

    (長崎県長崎市)

  • 270-5長崎医大病院の碑

    【旧長崎医科大学正門】長崎市が設置したものです。上部の円の内側の部分は「醫」の字を図案化したもようになっています。被爆当時の内科病棟のベランダ手すりにうめこまれていたものだそうです。

    (長崎県長崎市)

  • 270-6被爆直後の長崎医大病院

    【旧長崎医科大学正門】上の長崎医科大学付属病院の碑にあった写真です。一面の焼け野原に鉄筋コンクリート造りの病棟だけが倒壊せずに残っています。

    (長崎県長崎市)

  • 270-7長崎大学医学部

    【旧長崎医科大学正門】現在の長崎大学医学部です。

    (長崎県長崎市)

  • 【咸宜園】

    271-1入口

    【咸宜園】幕末の儒学者広瀬淡窓による私塾跡。「咸宜」とは「みなよろしい」という意味で、身分にこだわらず、学問をしたい人は誰でも入塾できたことから名付けられたといいます。当時の咸宜園は道を隔てて東側と西側にわかれていました。写真は、東側の入り口です。西側は残念ながら井戸しか残っていません。

    (大分県日田市)

  • 271-2広瀬正雄像

    【咸宜園】(1906年7月3日 - 1980年12月3日)先祖には咸宜園を創始した広瀬淡窓がいます。父親は日田郵便局長でした。昭和20年(1945)から日田市長を務めた後、衆議院議員となり国政に参与。佐藤栄作内閣では郵政大臣となるなど重職を歴任しました。

    (大分県日田市)

  • 271-3秋風庵

    【咸宜園】咸宜園に現存する建物のなかでも最も大きな建物です。遺構としてはこの秋風庵以外には遠思楼(えんしろう)と西塾井戸があります。この建物は淡窓の伯父月花が天明元年(1781)に建築したものです。淡窓は安政3年(1856)にここで亡くなりました。

    (大分県日田市)

  • 271-4遠思楼

    【咸宜園】「嘉永2年(1849)5月、淡窓67歳の時に落成した」とあります。しかし、明治維新後は塾の衰退とともに、一時期民家として使用されていたそうです。平成12年(2000)に修復されました。二階建てで、一階は書庫、二階は三畳と四畳半の部屋があります。

    (大分県日田市)

  • 271-5書蔵庫

    【咸宜園】現存する建物ではありませんが、このような書庫があったようで、再建されています。

    (大分県日田市)

  • 271-6東塾井戸

    【咸宜園】東塾井戸は往時よりこの場所にあったようで、当時の雰囲気を最も偲ぶことができる場所の一つとなっています。

    (大分県日田市)

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