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  • 255-5舞鶴橋

    【米沢城】米沢城本丸東に架かる橋です。現在本丸にある上杉神社の表参道ともいえる橋です。上杉謙信の旗印「毘の一字旗」と「懸かり乱れ龍」がはためいています。

    (山形県米沢市)

  • 255-6内堀1

    【米沢城】このように内堀は現存しています。特徴的なのは石垣ではなく土塁で固められている点。さらに土塁も高いとはいえず、堅城とは言い難い気もします。さらに外側の二の丸と三の丸の間にも堀がありましたが現存していません。

    (山形県米沢市)

  • 256-1案内板

    【米沢城】本丸部分が内堀とともに残されています。典型的な輪郭式の縄張りをしています。堀の外側は二の丸で、その外側には三の丸がありましたが、三の丸はほとんど残されていません。

    (山形県米沢市)

  • 256-2上杉景勝

    【米沢城】上杉景勝(1555~1623)は米沢藩の初代藩主です。豊臣政権下では会津120万石の大名となり、五大老のひとりとなりました。秀吉の死後は家康と対立、関ヶ原で家康率いる東軍が勝利したこともあり、30万石に減封され米沢にやってきました。(写真は案内板にあったものを撮影)

    (山形県米沢市)

  • 256-3伊達政宗

    【米沢城】「独眼竜」として有名な戦国時代の武将、伊達政宗(1567~1636)は米沢城生まれです。幼名は梵天丸といいます。後に本拠地を仙台に移し、仙台藩62万石の始祖となりました。(写真は案内板にあったものを撮影)

    (山形県米沢市)

  • 256-4直江兼続

    【米沢城】直江兼続(1560~1619)は上杉景勝の重臣です。同じ上杉景勝の重臣だった直江家を継いでからは直江兼続と名を改めました。秀吉政権下で主君の上杉景勝が会津120万石の大名となると、米沢に城代として入ります。また、関ヶ原の合戦後、上杉家が米沢30万石に縮小された後も、町割り、水路の整備等米沢発展の基礎を築きました。(写真は案内板にあったものを撮影)

    (山形県米沢市)

  • 256-5上杉謙信祠堂跡

    【米沢城】江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した祠堂が建っていた場所です。天正6年(1578)3月13日、越後春日山で逝去、遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉されたといわれています。その後、会津、米沢と謙信の遺骸は移されていきましたが、明治4年(1871)に歴代藩主が眠る御廟所に移されたので、跡地が残っています。

    (山形県米沢市)

  • 256-6招魂碑

    【米沢城】戊辰戦争(1868)および西南戦争(1877)での戦死者を慰霊するために明治11年(1878)に建てられました。その後、日清、日露戦争での戦死者も合祀されています。

    (山形県米沢市)

  • 257-1伊達政宗公生誕之地

    【米沢城】仙台城主で仙台藩初代藩主の伊達政宗は米沢城で生まれました。幼名は梵天丸といいます。その後、東北地方最大の大名として名をはせ、現在に至る仙台の基礎を築きました。

    (山形県米沢市)

  • 257-2上杉鷹山公像(米沢城)

    【米沢城】アメリカ合衆国第35代大統領J・F・ケネディが日本人の記者団に「日本の政治家の中で最も尊敬しているのは上杉鷹山である。」と答えたそうです。しかし、その当時、まだ日本人のほとんどが上杉鷹山がだれなのかということを知りませんでした。

    (山形県米沢市)

  • 257-3上杉謙信公像(米沢城)

    【米沢城】上杉謙信は天正6年(1578)3月13日、享年49で死去。遺体は甲冑を着て甕に納められたといいます。初めは春日山城内へ、その後、本拠地が会津、米沢と遷るにしたがって移動し、現在は米沢の上杉家廟所に眠っています。

    (山形県米沢市)

  • 257-4上杉曦山公之碑

    【米沢城】上杉曦山(ぎさん)公は、上杉家第13大当主、斉憲の号です。斉憲の治世のときがちょうど幕末、明治維新の激動の時代でした。明治22年(1889)5月20日、東京にて薨去しました。二年後の明治24年(1891)に旧藩士によりこの碑が建立されました。

    (山形県米沢市)

  • 257-5稽照殿

    【米沢城】上杉神社宝物殿「稽照殿」(けいしょうでん)です。登録指定博物館、登録有形文化財。入館料は大人400円(高大300円、小中200円)。直江兼続愛用の「愛」の前立ての甲冑(金小札浅葱糸威二枚胴具足(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく))も展示されています。

    (山形県米沢市)

  • 257-6西参道

    【米沢城】西参道付近の堀には蓮が植えられており、きれいな花を咲かせています。

    (山形県米沢市)

  • 258-1菱門橋

    【米沢城】南参道へとつながる朱色の橋です。米沢城本丸跡(上杉神社境内)へは、東西南北それぞれにひとつ橋が架かっています。菱門橋はそのうち、南側に架かる橋です。

    (山形県米沢市)

  • 258-2内堀2

    【米沢城】土塁にかこまれており、規模は小さいです。土塁の高さもさほどでもなく、防御としての機能は小さいように見えます。

    (山形県米沢市)

  • 258-3春日神社

    【米沢城】上杉家の居城があった春日山の山頂は、奈良の春日大社から分祀された春日神社がありました。上杉家は、代々春日社を守り続け、藩主の移封とともに会津、米沢と移ってきました。明治5年(1872)に現在の地に移りましたが、大正8年(1919)の米沢大火の時に焼失し、松岬神社に合祀されていました。その後、昭和56年(1981)に再建され、現在に至っています。

    (山形県米沢市)

  • 258-4赤穂事件殉難追悼碑

    【米沢城】元禄赤穂事件で大石内蔵助ら赤穂浪士によって吉良上野介義央が殺害されました。この吉良上野介は米沢藩第3代藩主、上杉綱勝の娘婿にあたります。さらに、第4代藩主、綱憲の実父でもあるため、上杉家とは深いつながりがありました。また、養子の吉良義周は上杉綱憲の実子という関係もあり、上杉家からは義周お付きの家来が、何人か討ち入り当日に吉良邸にいました。彼らは、もちろんその時に戦死または重傷を負ったものもいて、まさに上杉家側から見た吉良邸討ち入り事件は「殉難」だったことがわかります。碑文にも、「赤穂浪士事件の為に上杉家の不幸後年に及ぶ」とあります。

    (山形県米沢市)

  • 258-5上杉謙信公の詩碑

    【米沢城】「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ家郷遠征を憶う」上杉謙信が七尾城(石川県)を攻略した際に詠んだ詩です。上杉家第16代当主隆憲氏(号 静山)が揮毫したものです。

    (山形県米沢市)

  • 258-6上杉神社本殿

    【米沢城】上杉謙信公を祀っています。大正8年(1919)の米沢大火で焼失しましたが、大正12年(1923)に再建されました。

    (山形県米沢市)

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