
@日本大学法学部(東京都千代田区) |
顕義データ |
生没年 |
1844(弘化元年).11.18~1892(明治25年).11.11 |
生誕地 |
長門国阿武郡萩椿郷東分村(山口県萩市) |
名前 |
山田市之丞 顕孝 顕義 |
人物伝 |
父:山田七兵衛顕行(萩藩士、藩海軍頭)
母:鶴子
「日本大学の創設者」
萩の松下村塾に入って吉田松陰に師事し、御楯組血盟に参加して攘夷運動に参画しました。その後、萩で狙撃隊を編成し隊長となりました。長州藩が大敗した禁門の変にも参加。その後も下関で英米仏蘭四国連合艦隊と戦ったり長州征伐等でも戦功を挙げました。
明治元年(1868)の戌辰戦争には征討総督仁和寺宮副参謀として活躍しました。明治4年(1871)には陸軍少将兼兵部大丞となりました。岩倉使節団にも理事官として随行しました。明治10年(1877)の西南戦争にも活躍し、陸軍中将となりました。その後、司法大臣、枢密顧問官を歴任。また、日本法律学校(現、日本大学)や国学院の創設に携わりました。明治25年(1892)に生野銀山(兵庫県朝来郡生野町)を視察中、事故死。 |
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顕義ゆかりの地 |
・【顕義園】山口県萩市
山田顕義誕生地にあります。 |
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