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第37話 飫肥城
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大手門
日本100名城スタンプ設置場所
飫肥城歴史資料館
飫肥城の大手門を内側の桝形から撮影したものがスタンプの図柄となっています。アングルもバッチリ。ここが飫肥城の顔となっています。

■探訪記(2010.08.09)
 所在地 : 宮崎県日南市飫肥10丁目1番2号



通行手形
訪問情報

飫肥は、約100年もの間、島津氏と伊東氏の係争地帯でしたが、豊臣氏に仕え、九州征伐に功のあった伊東祐兵が領有してからは、明治維新にいたるまで一貫して伊東氏の居城でした。

飫肥の城下町はこじんまりとしていて情緒たっぷり。江戸時代の城下町の面影を色濃く残しています。この城下町散策の友が通行手形です。これで城下にある6つの施設が見学できるようになります。その6つの施設の詳細は以下です。

【通行手形で入場可となる施設】
豫章館・歴史資料館・松尾の丸・商家資料館・小村記念館・旧山本猪平家

四半的射場・おび天

 15歳の時に友達と3人で九州一周旅行をし、その時にここに立ち寄ったことを思い出します。そして、この「四半的射場」で射的をした記憶があります。今回は天候が悪かった関係もあってやりませんでしたが、懐かしさを感じました。

 また、江戸時代に建築された飫肥城化に残る唯一の建物、飫肥藩役所の物産方「飫肥商社」が置かれていた建物が残されており、飫肥名物「おび天」が販売されています。見た目は「さつま揚げ」のようなもので、魚のすり身を揚げて作られているものです。この角を曲がると正面に飫肥城の大手門があります。


豫章館

 正面に飫肥城の大手門が見える道を歩くと、右手には小村寿太郎の記念館があります。飫肥出身の外交官で政治家だった小村寿太郎といえば、日露戦争後、全権大使としてポーツマス条約を締結し、また、不平等条約の改正に尽力し、関税自主権の回復をしたときに外務大臣でもあります。

 そして、その反対側、左手には「豫章館」という建物があります。ここは、明治2年(1869)に飫肥藩主だった伊藤祐帰が城内から移り住んだ屋敷です。千鳥破風が美しい玄関や広い庭園が特徴的な格式高い建物です。


登城


大手門

この立派な大手門は、明治時代初めに取り壊されていたものを、昭和53年(1978)に飫肥藩復元事業の第二期工事として歴史資料館とともに復元再建されました。用材には、樹齢百年の飫肥杉が使用されています。

この大手門に限らず、飫肥城の石垣は切り込みハギ積みで積まれています。不規則は形の石を成形してパズルのように隙間なく積み重ねていくのはかなり難しい気がします。特に、この飫肥城の石垣石は形が不規則なものが多い気がします。それを切り込みハギで積むとはなかなかすごいです。


松尾の丸へ

入口

御座ノ間

御寝所

殿様御厠

湯殿(蒸風呂)

 ここ松尾の丸には御殿が復元されています。藩主の応接間である御座ノ間や寝室である御寝所などが復元されています。また、湯殿は豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられているものと同じものを復元しています。


飫肥小学校

看板

土塁?

 写真に写っているのは、飫肥小学校です。この小学校のグラウンドは、もとは飫肥城の旧本丸がありました。飫肥城は大小13の曲輪があり、各曲輪を空堀で区切った壮大な規模を誇っていました。もともとここにあった本丸は、寛文2年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1686)と三度にわたって大きな地震に見舞われ、地割れが発生したことから、現在本丸がある場所に移転することになりました。

 ちなみに看板には「ここは飫肥小学校です。運動場を渡る時は学校の先生に一言お願いします。」と書かれています。なるほど、塀もなくだれでも立ち入りができるようにはなっており、いってみれば無防備な気がしないでもありません。まぁ、そこが長閑な証拠であり、いいところだと思います。


本丸へ

虎口

本丸

搦手門

石垣1

石垣2

 旧本丸から一段高い場所に本丸跡があります。現在は割と広めで緩やかな階段を登って行くわけですが、往時はそれだったら防御のていをなさないので、もっと工夫が凝らしてあったんだろうなと思いながらの登城となりました。ただ、その先には虎口門らしき遺構があり、その先は桝形になっているので、なかなか見応えがあったに違いないと思いました。

 ちなみに、この付近の石垣もすべて切り込みハギ積みです。とくに虎口手前の見事に切り石加工された石垣は見事で、苔むしており、時代を感じさせます。


歴史資料館

歴史資料館入口

九曜紋

 飫肥城内、飫肥小学校の脇にある歴史資料館です。館内には飫肥藩ゆかりのものが多数展示されています。九曜紋は飫肥藩伊東家の家紋のひとつということですが、九曜紋といえば肥後熊本城主、細川氏の家紋のイメージが強いです。


城下町

伝統的建造物保存地区

小村記念館入口

小村記念館内部

小村寿太郎生家

旧伊東伝左衛門家

藩校「振徳堂」

 こうして飫肥城を後にして、城下町をゆったりと散策。といいたいところですが、この日はあいにくの天候で、残念な日になりました。その上、飫肥城を見終えて、城下町を散策する段になって雨脚が強まっていったのです。ただ、なんとか雨を避けながら(傘は持っておらず)歩きとおし、必要十分なところだけは行ってきました。通行手形600円の元を取った形です。

 特に、小村寿太郎が飫肥の出身だったことは知らず、思わぬところで会えてびっくりです。小村寿太郎といえば、日露戦争後のポーツマス条約締結の時に全権だった人物。大国ロシアに一歩も譲らず、日本側に有利な内容で講和することに成功したなかなかの人物というイメージがありました。さらに、明治日本の念願だった条約改正を実現したことでも知られています。小村記念館の中には、そのポーツマス会議の様子を描いた絵が飾られており、向かいのテーブルには、ロシア全権のウィッテも認めることができます。

 また、近くにはその小村寿太郎の生家や彼が通った藩校「振徳堂」もあり、見ることができます。ちなみに、この振徳堂は城内にある飫肥小学校の前身になります。


2010.08.09訪問

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