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■探訪記(2009.08.07) |
所在地 : 大分県大分市荷揚町73・75ほか
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堀をぐるり |
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市役所裏の駐車場に車を停めて、いよいよ大分府内城へ。初めてではないですが、時間をかけてゆっくりと見たことがありませんでした。現在の府内城跡を北西側から入ると、そこは西丸だったところになります。この場所には現在は大分文化会館立っているのですが、「日本100名城スタンプ」はここで押すことができます。スタンプには堀と二重の隅櫓が描かれていましたが、実際は似たような櫓がいくつもあって少々困惑します。しかしその分、現在の様子を見ても、このお城の堅固さがうかがえるのです。複雑な形状をした堀、高さはさほどでもありませんが立派に残された石垣、要所要所に配置された二重櫓・平櫓など、100名城に恥じない雰囲気はありました。
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復元された廊下橋 |
廊下橋内部
右側の窓からは天守がみえる |
西丸からの外観
和歌山城のより小さい |
廊下橋と西丸の間付近
かつてここに門があった |
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松栄神社という神社が、山里丸とよばれていた曲輪の跡地にあります。この曲輪では、茶の湯、能、月見などの諸芸能が営まれていたということです。この山里丸と西丸(西の丸)を結ぶ堀に架けられたのが「廊下橋」です。平成8年に復元されたまだ新しい橋です。和歌山城に同じく復元された廊下橋があったことを思い出します。
この廊下橋から西丸へと入っていくわけですが、西の丸と本丸を隔てていた堀は現在は埋め立てられており、本丸と続いています。かつて本丸があったところには櫓台とそれからのびる天守台が残されています。特に、天守台はきれいに残されていて上に登ることもできます。そこにかつては四重の天守閣があったそうです。
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人柱となったお宮 |
石垣下には「犬走り」 |
人柱お宮のほこら |
天守台石垣(野面積み) |
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本丸、天守台方面に向かう前に、もう一度だけ堀に下りてみます。堀にのぞむ石垣の下には犬走りが設けられています。犬走りが設けられているのは守備側の兵がそこに立って応戦するための場所としていくつかのお城に設けられている例はあります。ただし、大概のお城にはそのようなものは存在せず、珍しいものです。
野面積みで積まれた天守台下の犬走りのところに「お宮」の祠があります。お宮とは府内城(当時は荷揚城)を創築するときに弁財天の木造を抱いて自ら生き埋め、つまり人柱となった人物です。毎年、3月18日には法要が営まれているそうです。
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天守台 |
天守台石垣1 |
天守台石垣2 |
大友宗麟公銅像 |
この付近天守取付櫓跡 |
天守台へ |
天守台上 |
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天守台が現存しています。この石垣上には四重の天守がそびえていたということです。ちなみに、四重の天守閣は非常に珍しく、私が思い出す限りでは伊予の大洲城(愛媛県大洲市)くらいしかありません。
野面積みとおぼしき天守台石垣保存状態も良く上へ登ることができます。その天守台上は芝で整備されており、容易に周囲を見ることができます。平城とはいえかなりの高さです。
また、大友宗麟公の胸像がありました。やはり、豊後国の雄といえばこの大友宗麟といえるでしょう。一時は九州地方の大部分を支配し、薩摩の島津と九州の覇を競ったことで知られています。また、キリシタン大名としても有名です。
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府内戦紙 |
「府内戦紙」で「ふないぱっちん」と読むそうです。大分の真夏の大祭で、七夕祭りのメインイベント、電飾された山車が大分の中心部を練り歩く行事のことです。はじまりは、時の市長がこの山車のデザインがメンコ(大分弁で「ぱっちん」というらしい)のデザインに似ていることから、「府内ぱっちん」と命名したのだとか。
訪問した日は、ちょうどこの府内戦紙が行われる日だったようで、多くの山車が城内の広場に待機していました。そのあまりの迫力に思わず写真を撮りまくりました。山車は、前と後ろで違う人物というパターンもあり、多くの戦国武将たちが描かれてありました。
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ギャラリー |
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2009.08.07訪問
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