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■探訪記(2009.08.05) |
所在地 : 愛知県新城市長篠字市場22-1
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長篠城址史跡保存館 |
この日は長篠城で三城目(高遠城、岩村城、長篠城)。到着は夕刻となりました。案の定、日本100名城スタンプのある「長篠城址史跡保存館」の開館時間に寸前のところで間に合わず。しかし、閉館まではあと30分(17:00閉館、入館は30分前)ということで、中には入れませんでしたが、かろうじてスタンプはゲット。危なかったです。
というわけで、中には入れませんでしたが、自転車で長篠城とその周辺を散策することができました。
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本丸付近 |
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駐車場の正面がすぐに本丸になります。建物の遺構は全くなく、往時の姿をとどめる手掛かりは本丸と二ノ丸を隔てる空堀の跡程度のものです。要害という話ですが、現在のこの付近の様子からは、空堀がそれなりにある程度でなにせ、たった500の兵力で武田方の大軍を防いだとは信じがたいのが正直なところです。ところが、この認識はのちに覆されることとなります。
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長篠城の縄張概図です。天地が逆(下が北、上が南)になっています。長篠城は二本の川の合流点に位置し、それを上手に縄張りに組み込んでいるのです。さらに、北側には何重もの曲輪を配して、堅固な城郭を築いていたことがわかります。「日本100名城スタンプ」のデザインにもなっている牛渕橋は二本の川が合流して最初にある橋で、そこから本丸付近をみると断崖絶壁に守られた本丸の姿がよく分かるのです。
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曲輪跡 |
古城跡踏切 |
野牛郭付近の土塁1 |
野牛郭付近の土塁1 |
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現在の長篠城跡を分断するような形で線路が通っています。この線路に小さな踏切がありその名も「古城跡踏切」とありました。この付近はもともと野牛郭とよばれていた本丸に隣接するところだったようです。この付近に残る土塁はなかなか見事に残されていて、往時の長篠城を偲ぶことができる数少ない場所のひとつになっています。
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一旦本丸から離れ、「日本100名城スタンプ」のデザインにもなっている牛渕橋からみた本丸の姿を撮影すべく、自転車でその場所を目指します。直線距離はごく近いのですが、川に阻まれているためぐるっと迂回していかなければなりません。その間、長篠城にあったさまざまな郭(くるわ)の跡地を確かめながらの移動となります。
写真左は、「馬場美濃守信房の墓」と伝わる場所です。馬場信房とは、天正3年(1575)におこった長篠の戦いに敗れた武田軍が退却する際に殿(しんがり)を務めた武田氏の武将です。最後は戦死し、その首を埋めた場所と伝えられているところです。
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鳥居強右衛門 |
鳥居強右衛門勝商の碑 |
鳥居強右衛門磔死之址 |
強右衛門の磔姿 |
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長篠城を訪れる前から、この鳥居強右衛門のことは知っていました。なので、この磔になった場所と伝わるところに自分がやってきたとなると、なかなか感慨深いものがあります。磔になったところは、長篠城から川を挟んで対岸の篠馬野と呼ばれているところです。
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鳥居強右衛門( とりい すねえもん )
武田方の大軍に包囲された長篠城の守備にあたっていた武将です。武田軍の攻撃をうけ、食糧も乏しくなったころ、援軍を請うためにひそかに城を抜け出し、武田軍の囲みを破って徳川家康や織田信長に面会します。
その後、再び城に戻ろうとしたところで武田軍につかまってしまいました。
武田軍の将兵たちは、落城寸前の長篠城に自ら戻ろうとしたことにまず驚きます。さらに、織田信長率いる援軍が接近していることを知り、何としても長篠城を一刻も早く落とそうとします。そこで、強右衛門に長篠城が見えるところで、「援軍は来ない。すみやかに降伏するように。」と城兵に伝えさせることを思いつきます。
そのことを承知した強右衛門は、川を隔てて長篠城の城兵が見えるところに引き出されました。
しかし、それをいいことに強右衛門は城兵に向かって、「まもなく援軍がやってくる!」と大声で告げたのでした。驚いた武田方はすぐに強右衛門を引っ込めますが、時すでに遅し。強右衛門の言葉に勇気づけられた長篠城は、信長本隊の到着まで持ちこたえたのでした。
一方、強右衛門は磔に処されます。そのさなか、武田方の将、落合佐平次なる武将が、強右衛門の勇気に感銘を受けて、その姿を自分の旗印としたいといい、描き写しました。それが、現在も残る強右衛門の磔姿の絵です。
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長篠古戦場跡(大通寺・医王寺) |
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長篠城の近くにあるお寺。
まず、大通寺。天正3年(1575)の長篠の戦いのとき、武田軍の馬場信春、武田信豊、小山田昌行らが陣を構えたところです。さらに、そのすぐ近くにあるお寺が医王寺といって武田軍の本陣、つまり武田勝頼の陣所があったところです。勝頼はここで長篠城の攻城の指揮をし、落城寸前まで追い詰めますが、結局落としきれず。続く設楽原の決戦でやぶれ、甲斐に逃げ帰ったのでした。
医王寺には弥陀池なる池があります。ここの葦はすべて片葉なのですが、それは、医王寺に伝わる長篠の戦いにちなんだ伝説が関係しているのだそうです。
説明板によると、決戦前夜、ここに陣を敷いていた武田勝頼の枕元に白髪の老人が現れて、「明日の戦いは無謀なのでやめるように。」と勝頼に忠告したそうです。勝頼はとっさに太刀で切り付け、切り付けられた老人は煙のように消え去ったというのです。翌朝、この弥陀池の葦はすべて片葉になっていたとのことです。
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長篠古戦場跡(設楽原、織田・徳川軍陣地跡) |
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長篠城からは車で移動しなければならないほど離れてはいますが、ここが長篠の戦いの決戦地となった付近です。戦国最強を誇ると恐れられた武田の騎馬軍団を、織田、徳川連合軍の足軽鉄砲隊がさんざんに打ち破った場所です。ここには二種類の馬防柵が再現されていますが、真ん中の写真は織田軍、右の写真は徳川軍の馬防柵を再現したものだそうです。組み方に違いがあることがわかります。
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ライブ・オーク |
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再び本丸。本丸の一隅にライブ・オークなる樫の木が植えられています。気付かない人がほとんどだと思われるほど目立ちません。説明板によると、この樫の木は平成2年(1990)にアメリカ、テキサス州から送られた種子(どんぐり)から発芽、成長したものです。
これは1836年におこった、テキサス、サンアントニオのアラモ砦の戦いと長篠城籠城戦が似ていることにちなんだものだそうです。アラモ砦に立てこもってメキシコ軍と戦っていた守備兵の一人、ポナムは敵の囲みを抜けて援軍を求めに行きましたが、友軍もまた苦戦している事実を知り、再び玉砕必至の砦に戻って行きました。そして、13日間の攻防の末、砦は落ち、守備側の兵士は全滅したというのです。
この戦いにおけるポナムと鳥居強右衛門の働きが似ているというのです。
強右衛門のような人が外国にもいたことはやはり感動させられます。
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2009.08.05訪問
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