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第17話 岩村城
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六段壁
日本100名城スタンプ設置場所
岩村歴史資料館受付窓口
険しい山道を登って行った先に突如現れる石垣群。その中でも本丸虎口の石垣は「六段壁」とよばれる圧巻ものです。この石垣を斜めから撮影したのがスタンプのデザインとなっています。場所は容易に見つけられます。
■探訪記(2009.08.05)
 所在地 : 岐阜県恵那市岩村町字城山



岩村歴史資料館

 岩村城址はJTBの「日本の秘境100選」にも選ばれたほどのところです。藩主が在城したお城としては最も高所にあるお城で、海抜717mもあります。高取城(奈良県)、備中松山城(岡山県)とともに日本三大山城のひとつに数えられています。歴史は古く、鎌倉時代にこの地の地頭職にあった遠山氏の居館から始まるとされています。別名は霧ヶ城といいます。

地図上では、中央自動車道経由で高遠城から交通の便がよく、同日の訪問となりました。駐車場は元々藩主の屋敷があった付近と本丸に近い場所(出丸)の二か所にあります。


復元された建物群

左端の建物は太鼓櫓

 この付近は明治期まで藩主の屋敷が残されていたそうですが、明治14年(1881)に惜しくも焼失しました。現在、岩村歴史博物館がある付近です。ちなみに、ここで「日本100名城スタンプ」を押すことができます。

 さらに、平成2年(1991)に写真にある太鼓櫓をはじめとした表御門などの建物が復原されました。まずは、ここが岩村城の顔となります。

 ただし、ここは山麓の居館で、城の中枢はここからさらに20分以上も山道を登った先にあります。忘れてはならないのが、このお城が「日本三大山城」のひとつだということ。これからいよいよ登城という名の山登りがはじまります。


女城主悲哀の物語

岩村城登城口

マンホールも岩村城

女城主の里

 登城のレポートをする前に、「女城主の里」について補足説明を。

 岩村城の女城主とは「おつやの方」とよばれる人物です。このおつやの方は、織田信長の叔母に当たる人で、信長の五男、御坊丸を養子にしていました。そして、夫である岩村城主、遠山景任が病没した後は、御坊丸を守って岩村城の女城主として采配をふるっていたのです。

 そんな折、武田信玄の家臣、秋山信友が岩村城を攻略しました。ただ、要害の岩村城はなかなか落ちなかったため、信友は、
「おつやの方と結婚することを条件に城を明け渡してもらう」
という和議をもちかけました。城側もこの条件をのみ、開城することにしたのです。その後、御坊丸は武田信玄のもとに人質として送られることになりました。しかし、このことは信長の怒りを買うことになりました。

 天正3年(1575)の長篠の戦いののち、武田氏の勢力が衰えてくると、信長はついに岩村城奪還を嫡子の信忠に命じます。これに対し、数ヶ月間も籠城に耐え続けてきましたが、岩村城はついに落城しました。

 その時、城主、秋山信友とおつやの方は信長の命によって逆磔にして殺されてしまいました。

 おつやの方が秋山信友に降ったばかりでなく、御坊丸を人質に差し出した事の恨みによるものだと思いますが、何とも気の毒な話です。


登城

本丸まで八百米


13:34撮影


 「岩村城登城口」と案内されている付近です。道の脇に「本丸まで八百米」という道標があります。もちろん、ここからは本丸の姿は全く確認できません。道はアスファルト舗装されており、まだ序の口といった感じです。ただ、道幅は狭く、坂道もかなり急です。


本丸まで七百米

13:36撮影


 この付近「下田歌子生誕地」および「下田歌子勉学所」というものがあります。

 下田歌子とは岩村藩に仕えていた、平尾家に生まれました。この付近はその平尾家の屋敷があった付近です。その後、明治32年(1899)に実践女学校、女子工芸学校を創設しました。これが、現在の実践女子学園にあたります。


本丸まで六百米

13:46撮影


 この付近から石畳になっています。何とも急な坂道です。この坂には「藤坂」という名前が付いていて、名の由来としては伝説として、岩村城を創築した加藤景廉の妻、重の井が紀州から藤の実を取り寄せて植えたことによるということです。この藤坂は一の門までの約300m続きます。


本丸まで五百米

13:48撮影


 藤坂はこの付近で、大きく左に曲がっています。有事の際、ここには「初門」または「仮御門」と称する門をつくり、防衛の陣地としたそうです。この初門のほかにも、藤坂には多くの門などが造られて敵の侵入を阻むことができていました。

 また、この付近には往時に岩村城の建物の建築資材として伐採された木の切り株などが残されています。


本丸まで四百米

13:51撮影


 もうすぐ一の門。正面に石垣がみえます。


本丸まで三百米

13:54撮影


 一の門をくぐったら、そこからは「土岐坂」という名の坂が続きます。一の門付近には朽ちかけた石垣があり往時の面影は残されていません。しかし、門のほか櫓など多くの建物がこの付近には建ち並んでいたそうです。また、岩村城の中でも最も古い石垣があるのも、一の門付近になります。

 三百米の道標は一の門址を越え、土岐坂を登った突き当たり、土岐門址の脇にありました。土岐門の土岐とはこの地域の名家で、明智光秀の出自とも噂のある土岐氏と関係のある門なのだそうです。ちなみに、土岐門は徳祥寺(岐阜県恵那市岩村町飯羽間)の山門として移築され、現存しています。


本丸まで二百米

13:58撮影


 この二百米の道標の先に見える石垣上に大手櫓門がありました。この門は城中最大の門だったそうです。大手門は、桝形になっており、この道標の手前に平重門という大手一の門があり、さらにその外側は空堀で仕切られていて、畳橋という橋が架けられていました。また、大手門脇にはその空堀を望んで三重櫓があったそうですので、この付近はかなり壮観だったことが想像できます。


本丸まで百米

14:03撮影


 いよいよ本丸へ。

 右手に二之丸、左手には八幡神社があることから八幡曲輪とよばれる曲輪があります。そして、その先にいよいよ本丸を中心とした岩村城の中枢部があるわけです。


本丸付近

本丸虎口の階段

本丸入口門のひとつ

現在の本丸全景

本丸に残る内桝形

岩村城歴史方位板

岩村城址の碑

本丸から見た出丸址

本丸表門1

本丸表門2

 本丸付近の石垣の遺構の見事さがわかるでしょうか。山奥に忽然とこのような立派な石垣遺構が見られるのです。密林の中に突如として現れる巨大建造物、アンコールワットとまではいかなくとも、日本の秘境100選に選ばれるだけの価値は十分にあると思います。ただ、本丸の一段下にある出丸は現在は駐車場となっていて、ふもとの駐車場よりは割と楽に本丸に到達できます。

 本丸は標高が717mもあるということです。最も高い位置には「岩村城址」の碑がありました。明治時代まではここに二重櫓と納戸櫓という二つの櫓があったそうです。特に本丸の二重櫓は籠城時に城主の最後の拠点となる重要な建物だったそうです。


表門脇の石垣

切り込みハギ積み

打ち込みハギ積み

 表門脇の石垣はなかなか興味深い造りをしています。

 それというのも、一方の面が切り込みハギで石垣を積んでいるのに対し、もう一方の面は打ち込みハギで石垣を積んでいる点です、このように同じ場所で石垣の積み方が違う例は、金沢城の石川門付近や、彦根城の天秤櫓などで見られますが、やはり一言でいうと奇異に感じます。いずれにせよ、石垣の積み方についてはかなり高い技術があったことの表れでしょう。個人的には、技術的には切り込みハギのほうが高いものを要求されるのでしょうけど、打ち込みハギが石垣っぽくて好みではあります。このような「好み」の問題は当時でも分かれていて、全国のお城を見てみると、同時期にもかかわらず、築城者の好みで二通りの積み方がなされています。


番所跡付近

野面積み

出丸への道

 番所跡は二の丸の本丸に近い位置にありました。現在二の丸は深い木立に阻まれて立ち入ることができなくなっていますが、当時は蔵や番所など多くの建物が建つ城内でも重要な曲輪だったようです。この二の丸跡付近からの本丸石垣は野面積みになっていて、石垣の積み方には荒々しさが感じられます。同時に、同じ場所で野面積み、打ち込みハギ積み、そして切り込みハギ積みと三種類の石垣の積み方が見られるのは非常に珍しい例といえるでしょう。

 岩村城は山城でありながら、石垣の見事さは目を見張るものがありました。この点は、観音寺城と似たイメージがありますが、江戸時代も継続して藩主の居城として存続し続けた点では勝るかもしれません。お城の遺構としては、ほぼ石垣のみとはいえ、日本100名城に恥じない立派なお城でした。


2009.08.05訪問

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