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第16話 高遠城
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問屋門と桜雲橋
日本100名城スタンプ設置場所
高遠町歴史博物館
高遠城内にある問屋門と桜雲橋がスタンプのデザインとなっています。スタンプと違って実際は、木立に邪魔されて門が見えません。これはすべてタカトオコヒガンサクラなるこの地にしかない桜の固有種です。花見のシーズンになると多くの観光客でにぎわいます。
■探訪記(2009.08.05)
 所在地 : 長野県伊那市高遠町東高遠


「殿坂口から高遠城址」 この台地上に高遠城はありました。天下第一の桜「高遠城址」とあります。


 このお城は今や建物は残っておらず、花見の時期以外は観光客もまばらです。土塁に囲まれた曲輪がかろうじて確認できるものの、その規模も大したことなく、ちょっと拍子抜けです。

 しかしながら、このお城は案外歴史上重要なポイントで出てきます。武田氏滅亡のきっかけになったのが、織田信忠(信長の嫡子)率いる5万の軍勢によって落城した高遠攻めでした。また、歴代城主には、徳川秀忠の実子、保科正之が名を連ねます。また、高遠城の縄張りをしたのは、武田信玄の軍師、山本勘助だといわれており、同名の曲輪(勘助曲輪)も存在するのです。


城内のようす

法幢院曲輪

白兔橋

深い空堀

高遠閣

高遠閣入口

南曲輪

 高遠城で思い出すことがあります。

 それは、ちょうど高遠城に訪問したころに読んでいた長編歴史小説「真田太平記」(池波正太郎)の最初の場面です。「真田太平記」は、向井佐平次と草の者、お江が高遠城でであう場面から始まります。向井佐平次とは、真田幸村と生涯を共にし、ともに大坂夏の陣で戦死することになる作品中の重要人物です。佐平次は天正10年(1582)に武田氏滅亡のきっかけとなった高遠城落城の折に、守備兵の一人として登場しますが、そのときに、法幢院曲輪の小屋に寝泊まりしてた女忍びのお江に助けられることから物語が始まるのです。

 その法幢院曲輪も今や何もないただの広場になっています。私が訪問したのは真夏の盛りでしたが、そんな時期もあって木立が鬱蒼と茂っており、むしろ訪問者の行く手を阻むかのようです。そこに当時の遺構を見出そうにも何とも難しいといえます。そうでなくとも、現在は桜の名所として公園化しているのです。ただ、武田信玄好みのお城であるのがわかるのが、やはり空堀の立派さです。各曲輪を隔てる空堀は現在でもその深さをうかがい知るには十分です。


本丸

太鼓櫓

新城神社・藤原神社

問屋門

 本丸にある数少ない建築物のひとつが「太鼓楼」。現在では時を告げる太鼓はなく、単なる展望所といった感じです。とはいえ、展望所というには小さくて、見晴らしも良いものではありません。文化財指定はなく、明治10年(1877)ころに現在の地にうつされて以来、朝6時から夕方6時まで一時間ごとに太鼓が打ち鳴らされていたということです。

 本丸の一角には神社があります。新城神社・藤原神社と呼ぶそうですが、この「新城」とは祭神の新城神からきている名前で、天正10年(1582)の高遠城落城のときに、城主で織田軍の前に壮絶な最期を遂げた仁科五郎盛信のことです。仁科信盛は武田信玄の五男にあたります。天保2年(1831)に藩主、内藤頼寧が祭ったということです。明治になって、内藤氏の祖神である藤原鎌足と合祀して現在に至っているとのことです。

 現在の本丸に至る門として問屋門がありますが、目立った建物は以上であり、城跡としての遺構は皆無といていいでしょう。鬱蒼と茂る桜の木は実に見事らしいですが、天正10年の高遠城落城の際の守備側の兵士の血を吸っているからだともいわれているそうで・・・。


高遠町歴史博物館

段丘上に縄張りされた高遠城。下からは山城に、上からは平城に見える。


こちらは本丸の部分。御殿と巽櫓があります。

 この模型は高遠町歴史博物館にあったものです。高遠町歴史博物館では、「日本100名城スタンプ」もここで押すことができます。また、この博物館はちょうど段丘の先端に位置しており、眺めがいいのも特徴です。眼下にはダム湖、「高遠湖」が開けています。また、高遠城ゆかりの名君、保科正之とその生母、お静の像があります。


高遠湖

お静の方

保科正之

 この保科正之とは二代将軍徳川秀忠の実子として生まれます。しかし、秀忠の正室、お江の嫉妬を避けて元和3年(1617)に高遠城主、保科正光の養子となりました。21歳のときに高遠藩主となり、のちに会津藩へと移封されます。これが、会津松平家の始まりとなるわけです。名君として名高く、41歳から20年間は江戸で四代将軍徳川家綱を補佐し、幕政を取り仕切りました。

 この保科正之、お静の像はつい最近建立されたようで、まだピカピカでした。地元ではこの保科正之をNHK大河ドラマの主役にしようとする運動もあるそうです。

 ちなみに、この保科正之が7歳で高遠にやってくる原因のひとつをつくった徳川秀忠の正室「お江」とは大坂夏の陣で敗れた豊臣秀頼の生母、淀君の妹にあたり、父は北近江の大名、浅井長政、母は織田信長の妹、お市の方になります。さきに紹介した「真田太平記」で主役級の活躍をする女忍びの名前も「お江」といいます。ただ、こちらは「おこう」といい、徳川秀忠のの正室「おごう」とは読みがちがいます。


絵島囲み屋敷

 高遠町歴史博物館の裏手に、「絵島囲み屋敷」とよばれる建物があります。ここは江戸時代、大奥に仕えていた女性、絵島が軟禁されていた場所だということです。屋敷の周りには忍び返しがついた塀があり、扉には格子がはめられているなど、物々しいものでした。現在の建物は昭和時代に復原されたものです。


 「絵島事件」
 正徳4年(1714)、7代将軍家継の生母、月光院に仕えて大年寄に出世していた絵島は、月光院の名代で前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途、「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城してしまいました。当時、大奥は家宣の正室だった天英院と月光院との間で勢力争いがおきており、絵島が遅刻して帰城したことが、大きな粛正へと発展することになりました。その結果、絵島は死罪となりましたが、その後減刑され、この高遠の地に永久流罪となったのです。


勘助曲輪付近

風林火山

勘助曲輪

伝 高遠城大手門

 高遠城は武田信玄の手に落ちた時、あの軍師、山本勘助が縄張りしたといわれています。半ば伝承に過ぎないのでしょうが、勘助曲輪という曲輪も残っていました。現在の勘助曲輪は広い駐車場になっていますが、これはもともと高遠高校のグランドだったからです。はるかかなたに城内への入口が見えますが、桜の時期になるとこれも満車となるとのこと。信じられません。

 また、近くには高遠城の大手門と伝わる門も残されています。これも、高遠高校の正門として使われていたらしいですが、老朽化が激しく、今にも崩れそうな感じがしました。いずれにしても、大手門と呼ぶには小さい門のような気がします。しかし、これが本当だとすれば、往時の建物としてはほぼ唯一の遺構となるのではないでしょうか。


2009.08.05訪問

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