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■探訪記(2009.08.04) |
所在地 : 山梨県甲府市丸の内1丁目
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甲府城は武田信玄の本拠地だった武田氏館(躑躅ヶ崎館)から南方に約2キロ、現在の甲府市の中心地に位置するお城です。慶長5年(1600)頃に、浅野長政、幸長親子によって整備されました。東日本屈指の壮麗な石垣群がみられるお城です。現在は舞鶴城公園として整備されています。
甲府城は武田氏館から南方に約2キロ。甲府市の中心地、甲府駅や山梨県庁に隣接する位置にあります。武田氏館からは自転車でずっと下り。すぐに到着することもあって、先に紹介した武田氏館と同日の訪問になりました。
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山手御門 |
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武田氏館から市街地方面へくると、最初に見えるのがこの山手御門です。甲府城にある三つの入口門のうちの一つでした。この門は平成19年(2007)と、ごく最近に再建されたものです。この山手御門だけが、本丸をはじめ甲府城の中枢部分からJR線路によって隔てられているため、飛地のような位置にあります。甲府城は廃城後の明治維新以降は、ほとんど整備もなされず石垣を残すのみとなり、このようにJR線路を敷設する際にはお城を分断してしまうことになりました。現在のJR甲府駅や山梨県庁がある付近も、往時はそれぞれ清水曲輪、楽屋曲輪とよばれる甲府城の一部だったのです。
この山手御門は高麗門形式の一の門と櫓門形式の二の門からなり、その間が桝形になっている厳重なつくりの門です。とはいえ、このように二つの門によって厳重になっている形式の門は大概全国のお城に見られるものではあります。
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入城 〜稲荷曲輪へ〜 |
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武田氏館から甲府城つまり市街地の方へ下ってくると、JRの線路につきあたります。この付近が山手御門があるあたりになるのですが、そこから甲府城へと向かうためには線路の向こう側に行かなければなりません。そこで、跨線橋である舞鶴橋を渡っていくことになります。ちなみにこの「舞鶴」とは甲府城の別称ですが、全国さまざまなお城でこの名前が使用されています。
舞鶴橋を渡った最初の入口が内松陰門です。現在でも舞鶴城の入口は何箇所かありますが、その中でも小さな方になります。この門はもともと屋形曲輪と二の丸をつなぐ門だったのですが、屋形曲輪はちょうど舞鶴橋に分断されていて残っていません。平成11年に復元されました。
この内松陰門を登っていくと稲荷曲輪という本丸に直結する曲輪に至ります。本丸の北側に位置する曲輪で、天守台をはじめとした本丸が一望できます。その北東隅にはこれも近年再建された稲荷櫓が見えます。甲府城の建物は現存しておらず、この稲荷櫓が現在のいわば甲府城の顔になっており、「日本100名城スタンプ」の印影にも描かれています。
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稲荷櫓 |
山手御門付近から |
日本100名城スタンプ |
稲荷曲輪から |
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甲府城の現在の顔である稲荷櫓を様々な場所から撮影しています。最も美しいアングルは写真左の山手御門付近からの遠景だと思います。この稲荷櫓は近年、さまざまな資料の解釈の下、忠実に復元されたものだということです。石落としの位置や全体的なつくりから判断して、徳川氏ゆかりのお城である名古屋城、二条城、江戸期の大坂城のころに造られた現存する櫓に似ています。
この櫓は中に入れるようになっていて、ここでも日本100名城スタンプを押すことができます。外には「甲斐府中城」という幕が。しかし、この稲荷曲輪内側から見る櫓の姿(写真左)は名古屋城の小天守にとてもよく似ています。
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本丸 |
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この模型は稲荷櫓に展示されていたものです。本丸の部分の拡大写真なのですが、いちばんの特徴は天守台があって天守閣がない点だと思います。しかし、このように天守台だけが造られているにもかかわらず、実際に天守が建てられなかったお城は他にもたくさん例があるにはあるのです。この本丸の御殿は用地が狭いこともあり、模型でも小規模なのが分かります。その一方で天守台が非常に大きいのが分かるかと思います。
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本丸櫓跡 |
謝恩碑 |
鉄門跡 |
銅門跡 |
天守台 |
鍛冶曲輪から見た本丸 |
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本丸は高い石垣と塀に囲まれ、本丸櫓とよばれる二層櫓がありました。この櫓は明治期の廃城まで残っていたそうですが、現在ではこのように石垣のみになっています。この甲府城の本丸は一段下の稲荷曲輪や鍛冶曲輪から見ると石垣に囲まれて高くそびえる姿がなかなか壮観です。特に天守台石垣は外側から見るとかなり高くなっており、石垣の見事さでいえば、東日本有数のお城といってよいかと思います。東日本のお城はどうしても西日本のそれと比較して石垣の見事さについては見劣りする感じがするので余計に甲府城の本丸の石垣の見事さが映えるのです。
現在の本丸でもっと目を引くのがひときわ目立つ高い塔だと思います。これは高さ30.3m、碑の部分の高さだけでも約18.2mもあり、かなり立派なものです。これは「謝恩碑」というものですが、明治44年(1911)に山梨県内にあった皇室の山林が明治天皇から山梨県に贈られたことを記念してつくられたものだということです。大正9年12月の完成です。
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天守台 |
登り口 |
落書き |
南側(市街地方向) |
西側(本丸方向) |
北側(躑躅ヶ崎館方向) |
北東側(稲荷曲輪) |
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天守台はなかなかの大きさで、もし本当に天守閣が立っていたのであれば、かなり大きな建物だったことが推測できます。さらに四角形ではなくて一辺がくぼんだ不思議な形をした五角形になっています。初めから天守閣を造るつもりはなかったのではと疑いたくなります。しかし、もし天守閣が造られていたとしたら、安土城や岡山城に見られるような不等辺の天守台の上に望楼を乗せたようなつくりになっていたことと思います。
驚くべきことに、発掘調査の結果、金箔を施した瓦などが出土していることからひょっとしたら天守閣が存在していたのではないかとも考えられはじめているのです。
しかし、天守台石垣は心ない人たちの落書きで満ちていました。私も随分いろいろなお城を回りましたが、ここまでひどいのは残念ながら初めてでした。「〜大好き」というたぐいの落書きが圧倒的に多く、上段真ん中の写真にははっきりと「川上なつみ大好き」と読み取れます。このようなモラルが低い人になつみさんとの恋が成就したとは到底考えられない気がするのですが・・・
とにかく天守台からの景色は抜群で四方を盆地に囲まれている甲府の市街地を実感できます。北側には躑躅ヶ崎館跡が見え、その奥に山々がそびえています。緑も多く、理想的な街並みといってよいでしょう。
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2009.08.04訪問
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