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 トップページテーマ日本100名城探訪記武田氏館 第24番 武田氏館
第14話 武田氏館
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武田神社
日本100名城スタンプ設置場所
武田神社宝物殿
スタンプのデザインは武田氏館の全景を空から見た図に違いありません。従って、同じ角度からの撮影は不可能。代わりに武田氏館にある武田神社の鳥居を撮影してみました。
■探訪記(2009.08.04)
 所在地 : 山梨県甲府市古府中町2-611(武田神社)


 甲斐の虎、武田信玄の本拠地として有名な武田氏館です。

 当時の大名の本拠地としては珍しく館造りとなっています。「人は城、人は石垣、人は堀」の謳い文句の通りなのですが、実際は後詰めの城もありますし、なかなかの規模の堀や三日月堀の遺構などが残されています。

 よくわかる絵地図がありましたが、もちろん当時の建物は残っていません。しかし、その縄張りは名残をとどめていることが分かります。

 ここはお城という視点で見るとさほど驚かないかもしれません。しかし、ここがあの武田信玄が本拠としたところという点は高く評価されてよいと思いますし、堀や土塁等の保存状況もまずは及第点といえます。


入口

神橋の上から

武田通り

武田氏家紋

 日本100名城における登録名は「武田氏館」ですが、「躑躅ヶ崎館」という名でも知られています。信玄の頃の躑躅ヶ崎館は東側に大手口があったようですが、現在の武田神社の正門ともいうべき入口は南側にあります。この南側入口には神橋という橋がかけられていて、そこから市街地側にはまっすぐに約2キロにわたって「武田通り」と名付けられた道があります。

 武田通りは緩やかな下りになっていて、自転車で下って行ったのですが、甲府駅前まで全く漕ぐことなく行けるのではと思ったほどです。途中には山梨大学の甲府キャンパスが左右にあり、さながら大学構内を通っている感覚になります。

 さて、その神橋のたもと付近、武田氏の家紋を形どったモニュメントがありました。武田の「田」の字を図案化したものだそうです。一般には「割菱」と呼ぶそうですが、武田氏固有の家紋ということで「武田菱」とも呼ぶそうです。

 もう少し武田氏のことに触れると、清和天皇を源流とする源氏の一族、東北経営で名を上げた八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光が始祖ということですからかなりの名族といえます。その子の代から甲斐に土着したということですから、信玄のころにはすでに甲斐国にきて19代目でした。


武田神社

拝殿

甲陽武能殿

能舞台

 武田神社の祭神は武田晴信命(たけだはるのぶのみこと・武田信玄)です。由緒書によると、大正4年(1915)に信玄に対し従三位が追贈されたことを記念し、官民一致で社殿建立の気運が高まり、大正8年(1919)に鎮座祭が行われ、現在に至っています。

 神社は、かつて信玄の居館があったと推定されている主郭跡地にあり、拝殿、本殿のほか、信玄ゆかりの品々を収める宝物殿や野外能舞台(甲陽武能殿)があります。


宝物殿

宝物殿入口

躑躅ヶ崎館ジオラマ

武田信玄像

 主郭の一角にある宝物殿です。ここで、日本100名城スタンプを押すことができます。武田氏ゆかりの宝物が収められており、なかなか興味深かったです。いろんなところにある「お約束」のジオラマも堪能しました。改めて見ても、やはり躑躅ヶ崎館(武田氏館)が居館というにはあまりにも規模が大きいものだったということがわかります。つまりは、天守閣がない平城と同様の規模と縄張りをしているのです。


周辺を歩いてみました

 これらの写真はすべて武田神社周辺で撮影した堀跡です。往時の立派な姿はとどめてはいませんが、切り立った土塁がそびえ、なかなかの深さです。やはり「居館」の域を超えています。わずかながら水をたたえていましたので、水堀だったのだろうかと推測しました。


積翠寺温泉方向

要害山

御隠居曲輪南スポット公園

 武田神社の北側にはこのように山並が広がります。正面の方向が武田信玄生誕地と伝わる積翠寺がある「積翠寺温泉」にあたります。このお寺は信玄公の隠し湯のひとつとされ、あの川中島の戦いの後で、傷病兵を癒した温泉といわれています。

 そして、その脇にそびえるのが要害山です。これは有事の際、居館的色彩の強いこの「躑躅ヶ崎館(武田氏館)」を捨て、最後の籠城を図るための「後詰め」の山城のなのです。その名の通り、要害であったことは想像がつきます。

 さらに、その付近にあったのが御隠居曲輪です。背後には要害山を控えており、ちょうど武田神社の北東隅にあたる所にある休憩スポットです。この付近はさすがに観光客も少なくのんびりできます。ここから要害山を眺めるとほとんど家並みもなく、戦国時代同様の景色が見られるのです。


旧大手門付近

 現在武田神社がある「躑躅ヶ崎館(武田氏館)」は南側に平地が開けており、さらには下っています。つまり、城下町は南側に開けていたのが容易に推測できるのです。しかし、当時から正門である大手門は東側にありました。不思議です。

 ともあれ、この大手付近の現在の様子は神橋がある現在の「大手門」と呼んでよい南側に比べると寂れていることはまちがいありません。しかし、この付近は最近になって復元された往時の遺構が垣間見られるのです。

 大手門の外側に惣堀と土塁で囲まれた曲輪が存在していました。もちろん、現在では消滅しているのですが、この様に発掘調査をもとに復元されているのです。しかし、この復元された土塁や石垣は、武田氏時代のものではなく、後に甲府城が築城されるまでにこの躑躅ヶ崎館に入った大名たちにより、大幅に改修されたものなのです。

 武田氏時代には、この付近には丸馬出しと三日月堀が存在していたとの事です。この三日月堀は武田氏が好んで用いた築城方法の一つで、例えば松代城(もと武田信玄家臣、高坂弾正の居城「海津城」)、掛川城(遠江国、静岡県掛川市)など、武田氏の支配領域だった長野県や静岡県の城郭でもよく見られるものです。


2009.08.04訪問

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