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■探訪記(2009.08.11) |
所在地 : 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
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吉野ヶ里遺跡との出会い |
1980年代に現在吉野ヶ里歴史公園がある付近に工場団地の造成が計画されました。産業といえば農業くらいしかないような田舎において、この工場団地造成とそれに伴う企業の誘致による地域経済の活性化は住民らにとっても期待の大きいものだったと想像できます。しかし、その時すでにこの付近から弥生時代の土器などの遺物が出土していたのです。
しかしながら、土器の破片が見つかるくらいは別に大したことはないと、工業団地の造成を急ぎます。ところが、発掘を進めていくうちに、古代日本の歴史が覆るかもしれないほどの巨大な遺跡が眠っていることが分かってきたのでした。
そこには日本最大級の弥生時代後期によくみられる環濠集落遺跡があったのです。時代も近いことから、邪馬台国の遺跡ではないかともいわれました。この点は、その後の研究によって可能性が薄いことが分かりましたが、1980年代末ころ、マスコミが大々的に採り上げたことから、「邪馬台国、ついに発見か?」と大きなニュースとなり、大論争が巻き起こりました。
その当時、私は隣の長崎県に住む中学生でした。歴史好きの友達が(当時の私はまだあまり歴史に興味がなかった・・・)、「すごい遺跡が最近発見されたらしいから一緒に見に行こう。」と誘ってきたのです。それが最初の吉野ヶ里遺跡との出会いでした。
今でこそ整備されていて、広大な歴史公園となっていますが、当時はまだ手つかずの遺跡と発掘現場だけしかなく、発掘現場に立ち会っているといった新鮮で強烈な感覚を覚えました。現在JR吉野ヶ里歴史公園駅となっている駅は三田川駅という小さな駅でしかなく、そこから30分くらい歩いて現地に行ったことを記憶しています。
現在は、先にも述べたように「吉野ヶ里歴史公園」として整備されています。さらにそれだけでなく、発掘作業の成果が公園整備に年々加わっているようで、何度も訪れているとはいえ、毎回新しいものができているといった印象を受けます。元々、広大な規模だっただけあって、ここをつぶさに回ろうとすると相当な時間がかかるのは間違いありません。
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日本100名城としての吉野ヶ里遺跡 |
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日本でも最大級の弥生時代後期の環濠集落跡というだけあって、復元されたものとはいえ、立派な環濠があります。これはまさに防御のための施設で、古代の城郭とよんでもいいかもしれません。門付近にはとがった木の枝などで「逆茂木」とよばれるバリケードをつくっていたこともわかっています。
西門から入ると先ずはこのように最初の環濠が待ち構えていますが、実は何重にもめぐらされていて、古代においてはその規模、防御力両方において目を見張るものがあったことと思います。中世のいわゆる「お城」と違うところは、この環濠の中にムラなどの平素の住まいのほか日常生活の営みがなされていたことです。この点はヨーロッパの中世都市と似ているものがあります。とはいえ、小田原城などは「惣構(そうがまえ)」といい、町全体を城内に取り込む例もないわけではありません。
いずれにせよ、防御のための施設という意味においては、吉野ヶ里も古代日本においては有数の「お城」だったということは間違いありません。そういった意味では、日本100名城にふさわしいお城といえると思います。
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暑さ対策 |
スプリンクラー |
ミネラルウォーターのサービス |
笠のサービス |
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広大な吉野ヶ里遺跡の中で、真夏の暑い中、歩き回るのはかなりこたえます。そんな中、水をミストにして木々の間から吹き付けることをやっていました。それだけでもかなりすずしくなります。粋なサービスです。また、北内郭などいろんなところでミネラルウォーターのサービスがありました。私なんかは遠慮してそんなにたくさん飲みませんでしたが、このようなサービスがあるのはありがたいです。さらには日よけの笠もあります。これをかぶりながら公園内は見学することができ、主要な施設に入る時は入口の笠掛けに置いておくことができるようになっているのです。
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南のムラ |
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西門をくぐって、最初の環濠を横切ると広大な広場に出ます。はるか遠く(と言っていいほど)に復元された集落が見えますが、そこが「南のムラ」と呼ばれているところです。
ここは庶民の生活を再現しているところです。一部の建物の中には入れるようになっていて、当時の生活を垣間見ることができます。食料としては、穀類のほか、芋、魚などがあったらしく、貯蔵庫が食糧の模型とともに再現されています。さらに養蚕も行われていたらしく、蚕だなが再現されていました。
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物見やぐら・貯蔵庫 |
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厳重な防御施設、食料や武器を備えていた倉など、争いが絶えなかった時代を象徴しています。
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南内郭 |
南内郭の入口門 |
リアルな人形 |
南内郭の全景 |
王の家 |
王の妻の家 |
王の娘夫婦の家 |
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南内郭は4つの物見やぐらと厳重な門、環濠に囲まれた場所で、「大人(たいじん)」や「王」が暮らしていたところだと考えられています。この南内郭と隣接する北内郭が吉野ヶ里遺跡の中枢部になります。
王の家や王の妻の家、王の娘夫婦の家などが復元されていますが、基本的に竪穴住居で庶民と規模や大きさは同じなのが少し意外でした。
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北内郭 |
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北内郭は吉野ヶ里の中でも最も重要なところだったようです。高さ16.5mで復元した主祭殿が中心的な建物です。高床になっており、中も展示されています。指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先に祈りをささげるところと考えられています。
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指導者を中心に話し合いをしているところ(左)と最高司祭者が祈りをささげているところ(右) |
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北墳丘墓 |
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復元された甕棺墓群(かめかん)の先に立柱と大きな墳丘墓があります。歴代の王の墓で方形をしていたようです。中にもはいれるようになっていて、中には本物の甕棺が発掘当時のままで展示されています。
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全景 |
発掘された銅剣と勾玉 |
甕棺に葬られている様子 |
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争いが絶えなかった時代ということが発掘調査から分かっています・・・
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2009.08.11訪問
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