|
■探訪記(2009.08.11) |
所在地 : 福岡県大野城市・太宰府市・糟屋郡宇美町
|
|
とにかく広い! |
【大野城の位置】
|
大宰府、大野城、水城の位置関係が分かります。大野城は7世紀に造られた福岡県にある朝鮮式山城で、山全体が城となっている大規模なものです。さらに、古代の政庁である大宰府を守るため、向かい側の現在基山とよばれる山にも城を築き、間に水城とよばれる長城を築くという堅固な防衛網がありました。 |
|
西暦663年、白村江の戦いで日本は唐と新羅の連合軍に大敗しました。そのため、朝鮮半島に近い大宰の府(当時はもっと海に近いところにあった)を移転させることにしました。そこで、大野城を築いた四王寺山と基山を挟むところに水城とよばれる長城を造り、海からの侵入を防御するとともに、その奥に新しい大宰府を置きました。これが現在、国の特別史跡になっている大宰府政庁跡のはじまりになります。つまり、大野城は大宰府を防御する大規模な防衛線のひとつにすぎないのです。しかしながら、四王寺山全体がその城域となっているのでとにかく広いです。
さらにその山全体を土塁と石垣で囲んでいたといいますからかなりの規模です。その土塁や石垣は一部で現存しています。古代に造られたお城とはいえ、中世から近世つまり戦国〜安土桃山、江戸期に築かれたお城と比べても見劣りせず、むしろ凌駕しているともいえそうです。大野城の築城が国家プロジェクトとして進められていた表れだといえます。
|
|
大宰府政庁跡 |
|
日本100名城の大野城といっても手掛かりなしでは何の見当もつきません。ただ、福岡県には大野城市という都市があるので、「そこのどこかだろう・・・」くらいのものでしかありませんでした。
しかし、そういえば「日本100名城スタンプ」の設置場所に大宰府展示館というところがあったので、まずは大宰府へ行ってみようと思ったのでした。現在の大宰府政庁跡は整備されており、建物があったところには礎石が復元されて置かれています。そして、その一角に「大宰府展示館」があり、スタンプもそこで押すことができました。写真でも分かりますが、大宰府政庁跡の奥にある山が大野城がある四王寺山です。
展示館のおばちゃんがなかなか親切で、「京都からきたとね〜」といって親切にいろいろと説明してくれました。スタンプのデザインにもなっている石垣はどこか尋ねると「そいは百間石垣たいね。」と教えてくれました。「歩いていくなんてとてもじゃなか。車でいかんば。」ということらしい。
ちなみに、大宰府政庁と太宰府市の表記について、「大」と「太」の違いがあります。近くにある有名な神社、菅原道真を祭神とする太宰府天満宮も「太」になっているので注意が必要です。要するに歴史で登場する「だざいふ」は「大」を使用するようです。
|
|
嗚呼壮烈岩屋城址 |
岩屋城址の碑
嗚呼壮烈! |
大宰府政庁跡
|
水城跡
手前に九州自動車道 |
|
実は、大宰府政庁跡から大野城がある四王寺山へ登る途中、つまり山の中腹の尾根上に中世時代の城跡があります。そのお城を岩屋城といいます。土塁や堀切の遺構がわずかに残るのみですが、本丸跡へ行くことができます。
この岩屋城の城主だったのは大友宗麟で知られる豊後の戦国大名大友氏の家臣、高橋紹運です。彼は、落ち目の大友氏にあって最後まで忠誠を貫き、天正14年(1586)に島津氏の猛攻を受け岩屋城で壮絶な最期を遂げたといいます。なるほどそれで「嗚呼壮烈」というわけなのだと納得。
また、この岩屋城本丸跡からは大宰府や水城などがよく見えます。その規模、やはりただものではありません。とくに水城跡はその全体像がよくわかります。さながら日本版「万里の長城」のようです。現在でもよく残されており、九州自動車道などが分断された狭い間を通っているのがよくわかります。
|
|
太宰府口城門跡 |
|
岩屋城跡からさらに登ったところにやっと大野城の入口があります。
四王寺山全体を土塁と石垣が囲むように造られていますが、大野城には確認されている入口が四か所あります。大宰府口はその一つということですがかなり厳重な造りです。創築時のものなのか、岩屋城時代に築かれたものなのかは確認していませんが、この付近は土塁がわりといい状態で残されています。今回だけで大野城のすべてを踏破したわけではありませんが、この付近が往時をしのぶにも最適のところのひとつといえそうです。
また、城門付近の石垣は保存状態は良く、いまから1300年以上も前のものとは信じがたいほどです。厳重な積み方などをみてみても、ひょっとしたら岩屋城時代も含め、もっと後になって積まれたものなのではないかと思ってしまいます。
|
|
百間石垣 |
日本100名城スタンプのデザインにもなっている「百間石垣」
|
|
太宰府口から山頂へ。しかし、山頂付近を散策する暇もなく、また案内図などによると大した遺構はなさそう。そのまま道なりにまっすぐ行くと北の入口(宇美口)付近に現存する石垣が見えてきます。
この石垣が大宰府展示館のおばちゃんが言っていたあの「百間石垣」だということがすぐにわかりました。大野城がある四王寺山を囲むように土塁が築かれていましたが、この付近は川が流れており、その川底や石垣の基礎の中から城門の礎石とおぼしき石が今までに3個発掘されています。したがって、この付近は特に厳重に石垣を築いていたのだということが分かるのです。石垣の全長は150m以上あるということです。もちろん、城内最大規模を誇ります。
|
|
2009.08.11訪問
|
ページのトップ |
|
|
|
100名城トップ |