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第30話 松山城
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大小天守閣群
日本100名城スタンプ設置場所
大天守地下米蔵
 スタンプのデザインは空撮と思われます。したがって、同様のアングルでの撮影は不可能。仕方なく、本丸からの大小天守閣の姿を撮影しました。
 ちょうど、このアングルからの撮影が松山城天守閣を撮影する「定番」となっているようです。

■探訪記(2010.01.02)
 所在地 : 愛媛県松山市丸の内



松山城遠景(2003年8月撮影)

 現存12天守のひとつで、国の重要文化財に指定されています。この現存天守の中で唯一徳川家の家紋である葵の紋が瓦に付けられているのも特徴的でしょう。

 松山城も今回は再訪だったのですが、過去何度か訪れた時とはまったく様子が違いました。ちょうどNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第一部放送の直後。松山城をはじめ、松山の街は秋山兄弟と「坂の上の雲」で一大フィーバー。この特需に松山市も全市をあげての観光アピールといったところです。元々松山は夏目漱石の「坊っちゃん」を売りにしていましたが、ここにきて新たな観光資源ができたといったところです。

 松山城の本丸へと登るロープウェイの乗り口付近にある秋山兄弟の生誕地も観光地化されていました。松山城登城の後にしっかりと訪問してきました。そればかりではありません、平成19年4月には市内に「坂の上の雲ミュージアム」が開館し、平成22年の6月には来館者が50万人を突破しました。異様な人気ぶりです。

 ちなみに日本100名城のうち松山城は2つあります。そのうち、一般的にはこちら伊予国愛媛県にある方が単に「松山城」といい、岡山県高梁市にある方を岡山県の旧国名を冠して「備中松山城」といいます。どちらも江戸時代からの現存天守閣をもつお城です。


リフトで登城

よしあきくん

リフトで本丸へ

ふりかえって撮影!

リフトから天守閣

山上のロープウェイ乗り場

ここから散策スタート

 二の丸などのお城の一部機能がふもとにある関係でおそらく「平山城」に分類されているのでしょうけど、「山城」にしてもおかしくないともいえます。なぜなら本丸へはリフトやロープウェイをつかって上るほどの山上にあるからです。

 とりあえずロープウェイ乗り場へ。ここからはロープウェイのほか、リフト、徒歩などの手段で山上の本丸へと行くことができます。その中で、今回はリフトをチョイスしました。この日は冬にしては穏やかで寒さがあまり気にならなかったのと、ロープウェイの待ち時間が気になったからです。

 ところがリフト乗り場でも若干待たされて、10分少々で上れる徒歩の方が早かったのでは、と思うほどに時間がかかってしまいました。ただ、リフトにぶら下がりながら迫りくる大天守閣の姿はなかなか見ものです。


本丸へ

正岡子規「句碑」

秋山真之が登った!?

揚木戸門跡

 子規の句碑には
松山や秋より高き天守閣とあります。お見事!

 リフトを降りてから本丸に向かう途中にひときわ目立つ高石垣があります。上に見えるのは筒井門付近の建物です。「坂の上の雲」でもあった少年時代の秋山真之が樫の木の棒だけを頼りに登ったといわれるところです。打ち込みハギで積んである石垣は確かに棒をつきさすことができるほどの隙間はありますが、ここを登っていったとはかなりの剛の者といえるでしょう。


大手門跡

太鼓櫓

戸無門

筒井門

隠門

筒井門東続櫓

 大手門、戸無門、筒井門と多くの城門を突破してやっと本丸にたどりつくことができます。この中で注目すべきは筒井門付近の造りです。

 筒井門と隠門は並んでありますが、筒井門からは死角の位置にあります。これは、防御のための工夫のひとつです。つまり、攻め手がここまでやってきたときに注力を筒井門に注がせます。そこに隠門から守備側の兵が撃って出て挟撃しようという意図なのです。なるほどよく工夫されているなと感心します。このような防御のための工夫は松山城に限らず様々なお城に見ることができます。お城を見に来た時は、攻める側の兵になったつもりになって歩いてみるとそのようなことに少なからず気づくかもしれません。


本丸

松山城天守閣からの本丸(2003年2月撮影)


 山頂にひらけた平らなところが松山城の本丸です。周囲に石垣をめぐらし、ところどころに櫓を設け、さらには山頂にありながら深さ44mの井戸まで備えてあるところから、おそらくこの本丸だけでも籠城できるほどの防御力は持っているように思います。それもそのはずで、この山上にある本丸は有事の際の後詰の城という位置づけに近かったようで、その証拠に平時の藩主の住まいや政庁などの施設は麓にある二の丸に集中していたことが分かっているからです。その二の丸は現在は史跡庭園となっており、発掘調査から判明した御殿の間取りに区切られた苑池や大井戸の遺構などを見ることができます。以前訪問したことがあったので、今回は行きませんでした。


松山城二の丸史跡庭園


橙投げ(だいだいなげ)

橙投げ

だいだい

「正月や・・・」の幟

 ふと見ると、本丸の隅で「橙投げ」という遊びが再現されていました。子どもやおじいちゃん、おばあちゃんが遊んでいます。子どもたちは楽しそうに、大人の人たちは昔を懐かしむかのようにです。一目見て、昔の遊びだろうなと推察したのですが一体何だろうかと好奇心を持ってしまいました。

 傍らののぼりには正岡子規の俳句が書かれており、次のように詠まれています。

 正月や橙投げる屋敷町

 ただ、これだけだとさっぱり何の事だか分りません。まぁ、みかんの産地である愛媛県のことですから、橙を遊びの道具にすることななんとなく想像がつくのですが・・・。

 この件は後日調べてみて判明。子規は上の句を詠む前置きに次のような文を残していました。

われをさなくて郷里松山にある頃友二三人づゝ両方に分れ橙を投げあひてそを或る限の内にとどめ得ざりし方を負ケとする遊びあり之を橙投げとぞいへる正月の一つの遊びなりけるを今はさることも絶えにけん


本壇

本壇へ

葵の紋の瓦

大天守入口

 本丸から天守閣がある本壇はさらに一段高いところにあります。この本壇とよばれる区域は多くの建物がひしめいており、ほぼ往時の姿をとどめているといってよいと思います。ただ、昭和8年(1933)に不審火によって一部が焼失してしまいました。不幸中の幸いだったことは天守閣が無事だったことだと思います。さらに、現在は再建がなされ、松山城の圧巻ぶりを最も体験できる場所になっています。


創建当時の五層の天守閣CG

小天守閣

大天守閣内部

 大天守閣へは小さなにじり口のようなところから入ることになります。おそらく防御を意識した造りとなっていたためだと予想できます。さらに重要文化財の建築物らしく、鉄筋コンクリートで再建された各地の天守閣と違って木造なので階段も急です。そこがまた歴史的建造物っぽくていいにだと思います。

 大天守内部では、創建当時の五層の天守閣がCGで再現されていました。現在の天守閣と違って、壁は漆喰なのか白色をしています。この五層の天守閣は当時の徳川幕府に遠慮して三層に建て替えられたという話ですが、地盤の弱さを考慮しての建て替えだったともいわれています。

 いずれにせよ、この建て替えられた天守閣も江戸時代の後期まで存続していたようですが、天明4年(1784)に落雷によって焼失したそうです。現在の天守閣はその後、安政元年(1854)に再建されたもので、全国に12棟ある、江戸時代から現存する天守閣の中では最も新しい建物ということです。


西側(三津浜港方向)

北側

西側(道後温泉方向)

 天守閣の最上階からは松山の市街地が一望できます。西側は瀬戸内海を見ることができます。この瀬戸内海方向にある三津の港は夏目漱石の「坊ちゃん」にも描かれていて、坊ちゃんは松山にきた初日、この三津の港から「マッチ箱のような列車」に乗って松山の町にやってきたとされています。

 西側に目をやると、道後温泉が見えます。道後温泉は、日本でも最も古い温泉のひとつだといわれています。この、道後方向にロープウェイ乗り場である東雲口があり、さらには「坂の上の雲」で有名になった秋山兄弟の生家などがあります。


天神櫓
神社風建築

野原櫓
城内で最も古い建物のひとつ

紫竹門
サムライが写りこんでいます!

 松山城の本壇には天守閣のほか、おおくの建造物がひしめいていますが、その中でも意匠が違う櫓があります。

 その櫓は天神櫓といいます。松平氏の祖先といわれる菅原道真(天神様)を祭っているという話です。ただ、この櫓の方向は北東、つまり鬼門の方向にあります。多くのお城でそうであったように、この鬼門の方角は風水的には不幸をもたらす方角なので、このような神社風のやぐらにしたようです。風水にこだわった当時の人々の思想が垣間見られます。


2010.01.02訪問

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