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■探訪記(2010.01.02) |
所在地 : 愛媛県松山市道後公園
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松山城のごく近く。むしろ山の上にある松山城よりもアクセスは容易です。さらに、全国的にも有名な観光地であり温泉地でもある道後温泉にほど近いところにあります。
ただ、多くの人がこの付近を往来する中で、この湯築城跡に立ち寄る人はあまりいないような気がします。今回は、「日本100名城」の第80番ということで訪問しましたが、「どこが名城なの?」と正直疑いたくなるほどの残念なお城でした。う〜ん・・・
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伊予湯築古城之図 |
この湯築城は由緒は正しいようです。というのも、源平の合戦の時に源氏側について活躍した河野氏の居城だったところで、鎌倉時代から有力御家人として名をはせた家柄だからです。その後も、伊予国の中心地として河野氏の支配は約250年間も続いたそうですから、なかなか歴史的には重要なお城なのでしょう。
ただ、このような由緒正しいお城も、つい最近までは動物園だったらしく、本格的に発掘のメスが入ったのは動物園が閉園した昭和62年(1987)10月からということです。その発掘調査では、土塀跡や道路、さらには陶磁器などが発見されたそうです。その後の、遺構の保存状況や発掘調査にのっとった復元建物の忠実な再現などが評価され、「日本100名城」のひとつとなったのだと思います。
この日の松山入りが早朝だったこともあって、一旦道後公園の日本100名城スタンプを押しに向かったのですが、残念ながら資料館が開いてなかった関係でゲットならず。仕方なく、どっかで時間をつぶすしかないということになりましたが、それならば行くところはただ一つ。
徒歩圏内で行ける道後温泉です。その中でも「道後温泉本館」は早朝6時から営業しているので、まずは温泉にでもつかってからじっくり訪問しようと決めました。
そして、温泉でゆったり・・。その後、いよいよ湯築城を落としに行くことにしましたが、さらに待たされることになり、またまたあきらめ。先に松山城に向かったのでした。
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湯築城全景 |
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資料館の模型ではこんな感じです。中世〜近世の城区分でいえば輪郭式平山城といったところでしょう。中央には内堀に囲まれて高さ30mほどの小高い丘陵があり、本丸に相当します。
さらに、それを囲むように現在復元された武家屋敷や資料館などが存在する区域があり、その外側に外堀があるといった感じです。この外堀は、往時のものかどうかは定かではありませんが、現在道後公園となっている湯築城跡を隔てる役割を果たしています。
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道後公園その1 |
外堀 |
湯築城資料館 |
復元武家屋敷 |
復元区域 家臣団居住区 |
内堀と内堀土塁 |
排水溝の遺構 |
庭園の池 |
土坑 |
内堀から丘陵 |
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西側の門は裏口を意味する搦手(からめて)だったとの事ですが、現在大通りに面しているのがこの西門なので、そちらから入りました。そこからは、この湯築城を反時計回りにぐるっと回ってみることにします。
気になるスタンプですが、湯築城資料館にありました。最初に訪れたときはまだ開館時間前で外にスタンプが置いてありましたが、何とインク切れ・・・。出直してから館内で無事にゲットしました。
このお城が日本100名城に選定されたわけはこの資料館を見てもいまいち分かりませんでした。復元施設の正確さや内堀、土塁などの保存状態が良いからなのでしょうか・・・
この資料館から南側へぐるっと回る途中がこの湯築城跡の様子が最もわかりやすいところだと思います。復元された土塀や武家屋敷などがならんでいたり、内堀や排水溝などの遺構を見ることができます。しかし、この復元された武家屋敷は、切妻屋根の平屋建てで何とも粗末な感じがします。外堀の内側にあった屋敷跡であれば、重臣の住まいだったことが予想できますが、こんなにも小さな家に果たして居住していたのだろうかと思わず疑ってしまうほどです。
一方で、庭園の苑池遺構などが発見されており、その様子が見られます。陶磁器などのかけらも見つかっており、風雅な生活をしていたことが垣間見られるのです。
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道後公園その2 |
ふなや
道後温泉の老舗 |
子規記念博物館
道後公園の北隣にある |
道後レトロ浪漫号
ボンネットバス |
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道後公園の東側が当時の大手門です。この付近はグランドが造られており、お城といったイメージは皆無です。う〜ん。
さらに北側へ回り込んだところには子規記念博物館があります。平成21年度特別展で、「子規」「真之」「漱石」と書いてあります。いずれも言わずと知れた松山ゆかりの偉人、「正岡子規」「秋山真之」「夏目漱石」のことです。今回は時間の都合で行くことができませんでしたが、いつかは行ってみたいと思いました。
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2010.01.02訪問
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