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第42話 郡山城
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郡山
日本100名城スタンプ設置場所
安芸高田市歴史民俗資料館

スタンプのデザインは安芸高田市歴史民俗資料館裏手付近から郡山を見上げた構図となっています。手前の碑文には「百万一心」とあり、毛利元就が郡山城を築いた際に姫丸壇の礎石に記したといわれているものです。この碑は、郡山中腹の毛利元就墓所にあります。


■探訪記(2010.08.17)
 所在地 : 広島県安芸高田市吉田町吉田



 中国地方の覇者、毛利氏の居城といえば、毛利輝元が築いた広島城が有名ですが、それ以前はずっとこの吉田郡山城が居城でした。元々は南北朝時代の建武3年(1336)に毛利時親が築いたのが始まりで、その後は約260年余りの間存続し続けたということです。また、毛利元就が当主の時に、城域を全山に拡大しています。


安芸高田市歴史民俗資料館

選出 日本百名城 郡山城

安芸高田市歴史民俗資料館

郡山城全景

 はじめに資料館を見学。係の人に「100名城スタンプ」を借り受け、無事にゲット。この資料館は半ば寂れているのですが、尼子氏との戦いである郡山合戦(1540〜41)についての詳細が分かり、毛利元就にとっても紙一重の戦いだったことがよくわかります。この時に元就が敗れていたら日本の歴史も大きく変わっていたことでしょう。


百万一心

毛利元就像

元就の火葬場跡

郡山城内堀跡

青三井山尼子陣所

毛利元就墓所入口

墓所参道

毛利家墓所

毛利元就の墓

百万一心の碑

 資料館裏手の道を登っていくと、毛利元就の像があります。その傍らには元就の火葬場跡があります。この付近はまだ山のふもとといったところです。山の登り口付近に大通院谷遺跡というものがあって、往時の薬研堀の遺構がかろうじて確認できます。また、この付近は、郡山合戦の時に敵方の尼子氏が布陣した青光井山を一望することができます。

 毛利元就公墓所参道がそのまま本丸に至る道になっています。元就のお墓はこの郡山の中腹にあるのです。ちなみに、この付近は毛利家歴代の墓所になっており、元就の三回忌に当たる天正元年(1573)に洞春寺というお寺がありました。百万一心の碑は「日本100名城スタンプ」のデザインにもなっている有名なものです。但し、よく見ると「百」は二画目がなく、「万」の字も微妙におかしいです。これはわざと「一日一力一心」と読ませ、「日を一つに、力を一つに、心を一つに」という意味を持たせているのだそうです。


iいよいよ登山(登城)

郡山城本丸登山口

まむし注意

登山道

嘯岳禅師のお墓

郡山第2号古墳

本丸へ五三〇米

 本丸の登山口の案内は、この毛利家墓所を出たところにあります。ここからは完全に山登りです。お城めぐりという感覚は皆無になります。「まむし注意」の看板にまたも恐怖します。それというのもこの日は半袖半ズボン。初めて来たわけではないですが、少々この郡山を甘く見ていました。ヘビは嫌いです。

 途中にはさっき紹介した洞春寺の開山、嘯岳禅師(しょうがくぜんじ)のお墓、さらにはよく分かりませんが、古墳もあります。ここからは割とゆるやかな登りになっています。尾根伝いになっているのでしょう。この道が往時の登城ルートとなっていたかは定かではありませんが、大変な距離であることは間違いありません。やっとみつけた案内表示にも「本丸へ五三〇米」とあり、まだまだ先だということが分かります。


本丸周辺の曲輪群

(本丸中心に放射状に取り囲む多くの曲輪群。まずは、この図で確認してみてください)



 各曲輪を連結するのはこのような細い道のみ。往時の様子がいかほどだったかはわかりませんが、非常に細いのがわかります。さらに険しかったです。写真に写っているような場所はまだマシなほうです。



御蔵屋敷

石が転がっています

釣井の壇の井戸

 山頂のある本丸の手前まできました。 ここから本丸へは右に曲がるのが近道ですが、ここから曲輪の遺構を確認しながら遠回りしようと思います。郡山城の中枢部は本丸を中心に放射状に広がる尾根にそって大小の曲輪が配置されている縄張りになっています。つまり、ここから時計回りに、本丸を右手に見上げながらぐるっと一周できるようになっているのです。

 まずは「御蔵屋敷」という曲輪。東側には石垣に使われていたと思われる石がごろごろしていました。そしてその北にある「釣井の壇」。ここはその名の通り、井戸があり、現存していました。元就もこの井戸を使用したことでしょう。


姫之丸壇

姫之丸壇から釜屋の壇へ

釜屋の壇

羽子の丸への道

厩の壇

三の丸へ

本丸北の尾根伝いには「姫の丸壇」の遺構があります。ここに基礎をおいた本丸の石垣の中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、江戸時代後期の文化13年(1816)に長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本を取り持ち帰ったといわれています。 これら各曲輪を連結する道は現在ではとても細いですが、当時はもっと整備されていたのでしょうか。 「姫の丸壇」と「釜屋の壇」の間には「羽子の丸」という曲輪があったようですが、尾根伝いに結構遠くまで歩かなければならないようだったのであきらめました。そこまでに至る道もなかば草木に埋もれつつあって、一人で向うには危険な感じもします。

 まだまだ続く曲輪めぐり。続いては本丸東南方にあった「厩の壇」。その名の通り、厩舎があったところと考えられており、一段低いところには馬場もあったようです。


三の丸・二の丸・本丸

三の丸石垣群

三の丸

二の丸への上り

二の丸

二の丸から本丸を見上げる

本丸

御本丸跡の碑

本丸から二の丸、三の丸

土塁跡

 ここまで本丸を中心に時計回りにぐるっと曲輪めぐりをしてきましたが、ここからは中枢部の本丸を目指します。まずは「三の丸」。城内最大の曲輪だったそうです。そして「二の丸」。「本丸」と「三の丸」をつなぐ曲輪です。朽ち果てた石垣がまさに「兵どもが夢の跡」です。

 そしてついに「本丸」へ。石垣で固められていたと考えられていますが、現在ではその面影はなく、土塁のような壇上にあります。そんなに広い曲輪ではないです。一辺が約35mの方形をしています。


勢溜の壇〜旧本城

勢溜ノ壇の土塁

尾崎丸方面へ

尾崎丸堀切

 本丸制覇を果たした後は、元就が郡山城を全山に拡充する以前に本丸のあった「旧本城」を目指して下山していきます。「旧本城」は規模が小さく、郡山の尾根の一つにすぎません。毛利氏も元々は小さな豪族のひとつにすぎなかったということがよく分かります。 下山する途中にあった「勢溜壇」の跡。本丸を守る兵が滞在していたところということです。さらに「尾崎丸」。ここは山城によくある「堀切」の遺構が確認できます。割と分かりやすいです。


旧本城へ

険しい道

旧本城

  旧本城へ向かう道は他の道以上に険しく、特に旧本丸土塁から本丸上に登るところはいよいよサバイバル状態。道なき道を行くことに。ただ、三の丸、二の丸、本丸と続く曲輪の上は、周囲の木が切り倒されていて見晴らしがいいです。ここが、建武3年(1336)の毛利時親以来、元就が全山を城郭とするまで11代約190年間もその中心だったことを考えると感慨深いものがあります。


旧本城からの眺め

2010.08.17訪問

第41話 島原城 第43話 津山城

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