|
■探訪記(2010.08.17) |
所在地 : 岡山県津山市山下
|
|
津山城古写真 |
津山城は慶長8年(1603)に森忠政によって築城されました。天守閣をはじめとする建物は明治維新まで残されていましたが、その後惜しくも解体されてしまいました。天守閣は破風がない独特の形をしていたことが古写真から分かっています。
|
|
津山城概要 |
|
郡山城を後にして、中国自動車道沿いに車を走らせると津山城のある津山市に行くことができます。したがって、ここで再び高速道路を下り、津山城を登城することにしました。
ここも今まで何度か訪問したことがあるお城です。建物は明治維新まで残っていましたが、その後惜しくも解体されて現存していませんが、忠実に再現された備中櫓が近年再建され、津山城の顔になっています。
このお城のすごいところは、圧倒的な石垣だと思います。鶴山と呼ばれる山全体に石垣が覆う姿は圧巻です。そして、その石垣と見事にコラボする五千本ともいわれる桜。津山城のある鶴山公園は、日本の桜名所100選にも選ばれている桜の名所でもあります。
写真は本丸の南西端にある備中櫓。
この櫓が現在唯一の復元された建物です。天守閣とを隔てる塀も一部復元されてはいますが・・・。
この櫓はなかなか精巧に復元されていて、本丸御殿指図(「指図」とは設計図のようなもの)に描かれていたことから、御殿の一部として認識されていたものと考えられています。
内部には、御座の間や茶室などがあり、備中櫓の復元工事の様子や、CGによる往時の津山城を紹介するビデオが流れていました。 |
|
|
登城! |
|
裏門近くの津山文化センターに車を停め、裏門から入ろうとしましたが、何と閉鎖されています。よく見ると、「桜まつり期間中とゴールデンウィークのみ開門」とあります。残念ながら、表門まで鶴山に沿ってぐるっと歩きます。
表門付近にはずんぐりした「森忠政公像」。ちなみに、織田信長お気に入りの小姓で、本能寺の変の時に戦死した森蘭丸の弟に当たります。
|
|
表門出入り口付近(向かって右に歴史民俗資料館)
|
表門入口 |
冠木門跡 |
ゲート正面の石段(06年1月) |
|
表門からいよいよ入城。ここにたどり着くまでも立派な石垣群!西日本のお城は立派な石垣を持つお城が多いです。
そしてゲートをくぐります。この表門入場ゲートがあった付近は、当時は冠木門という簡素な門がありました。この門をくぐるとコの字型をした変形の枡形があって防御を意識したつくりとなっていました。現在、ゲート正面には幅の広い石段がありますが、当時はなく、その付近には番所があったようです。ちなみに、この石段を上ると、現在小動物園がある三の丸の倉庫があった付近につながっています。
|
|
三の丸・二の丸 |
三の丸 |
表中門跡 |
塩蔵・月見櫓・玉櫓へ |
四脚門跡 |
二の丸 |
二の丸から備中櫓 |
|
まずは三の丸。津山城は輪郭式(ウィキには「梯郭式」とありましたが、現地の案内表示は輪郭式とありますし、実際の縄張りを見ても完全ではないにしても「輪郭式」の方が近いと思います)の縄張りをしていますので、帯状にぐるっと細長い曲輪の形をしています。別名を「松の段」といいます。
この三の丸から二の丸へと至るところに表中御門(二の丸門)の跡があります。左右の石垣を見てみるに、おそらく櫓門形式だったこととおもいます。絵図の中でも、城内有数の規模をもった城門であったことが読み取れます。実際にみても幅が広く、立派。
枡形であった表中御門の二の門が四脚門です。一の門である表中門と比べると小さいです。ただ、この門をくぐったところが二の丸。つまり、二の丸の入口あたる位置にある重要な門だったことがうかがえます。また、この付近から再建された備中櫓が石垣上に見えます。この二の丸には12棟の櫓と大小7棟の門があったということです。
|
|
切手門跡。本丸へと続く道の途中にあります。切手門を上って行った先には、辰巳櫓がありました。辰巳とは南東の方角です。城下町が一望できる位置にあります。
真ん中の写真、この小さな門跡(十四番門跡)の左側には鼓櫓(包櫓とも)という櫓がありました。そのさらに左側が本丸入り口となる表鉄御門だったところです。ここは予備の門(または隠れ門)だったのでしょうか。余談ですが、伊予松山城にはよく知られている隠れ門があります。攻め手が本来の城門のほうに気を取られているすきに、その隠れ門から守り手が打って出るためのものなのだそうです。実際、この津山城の場合は、この先は本丸東側櫓群の外側の帯曲輪ともいうべき部分につながっていて、本丸を大きく北側に回り込めるようになっています。
|
|
本丸 |
月見櫓跡石垣
|
表鉄門跡 |
本丸御殿跡 |
表玄関付近 |
到来櫓 |
矢切櫓 |
栗積櫓 |
|
表鉄御門跡から本丸へ。この付近からは建物の中をとおっていたと考えられています。現在ではその面影は全くありません。本丸御殿があったといわれる本丸は、現在では広場になっています。その広場が開ける辺りには御殿の入り口、つまり玄関がありました。また、この付近には、到来櫓という櫓もありました。
現在の本丸跡へ行くと、東側にそびえる石垣群が見事なのがよく分かります。数十メートルにわたって伸びた石垣の途中に階段がもうけてあります。現在では、崩落や落下の危険から登ることが禁止されていますが、その先は断崖のはるか眼下に流れる宮川を確認することができるはずです。そういった点では、後堅固な縄張りをしており、梯郭式といっていいかもしれません。
この本丸東に並ぶ壮観な石垣上には、往時は絵図で確認するだけでも、南側から順に「鼓(包)櫓」「太鼓櫓」「矢切櫓」「月見櫓」と並んでおり、それらはすべて多聞櫓で連結されていたことがわかり、その壮観さがうかがえます。ちなみに、北東隅には小天守とよばれた櫓である「栗積櫓」という立派な櫓がありました。栗積山という山から用材を調達したのでその名がついたそうです。
|
|
備中櫓 |
|
忠実に再建された備中櫓
|
|
|
天守閣跡 |
天守曲輪入口 |
天守閣への階段 |
穴倉入口 |
穴倉(地下1F) |
天守閣から見た備中櫓 |
天守台上から |
|
天守閣跡。
天守閣は明治維新まで残っていました。古写真によると、小倉城などと同様の南蛮造のような外観をしています。破風がない造りは珍しく特徴的です。
天守台は内側から見ると二重になっていて、穴倉があったことが分かります。天守閣の入り口も一旦、この穴倉つまり地下一階を経由して登っていくようになっていたのが現在でも確認できます。
|
|
2010.08.17訪問
|
|
|
100名城トップ |