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■探訪記(2010.11.03) |
所在地 : 滋賀県長浜市湖北町伊部
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小谷山全景 |
小谷山全景
〜正面が大嶽城跡がある山頂、小谷城は写真右手の尾根に位置している〜 |
日本でも有数の山城だということで、これまでの経験からもお城めぐりというよりもほぼ山登りになることが十分予想されましたので、重装備で行きました。完全に登山スタイルです。登山用のハイカットのシューズ、時雨れたときのためのレインコートなど・・・。唯一準備不足だったのはクマよけの鈴くらいなものです。
意外にも初めての訪問で、さらに事前の情報収集もあまりしないまま行ったのですが、どうやら小谷城とよばれる部分は小谷山(495m)全体に広がるのではなく、そのうちの尾根のひとつを城域としたにすぎないことがわかりました。それでもかなり大きな規模です。
今回は山登り装備だったということで、この小谷山山頂へも向かうことにしました。ちなみに、この山頂には大嶽城(おおずくじょう)という中世の山城があったということです。
これら小谷城の城域は大嶽城のあった山頂から延びる尾根のうち、おもに隣り合う二つの尾根から形成されています。そのうち、ふもとから見て右側の尾根が本丸などがあるいわゆる小谷城の中枢部分で、左側の尾根には福寿丸、山崎丸といった曲輪の跡があります。そして、その二本の尾根の間は清水谷という登城ルートになっています。
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小谷城戦国歴史資料館 |
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この清水谷の入口付近に「小谷城戦国歴史資料館」があります。駐車スペースも十分あり、何やら近くには城門らしきものが復元されていました。私が訪問した時はちょうど改修中でしたが、中は普通に見られました。そして至る所にあったのが、「江〜姫たちの戦国〜」の幟。「NHK大河ドラマ第50作2011年放映決定!」とありました。
さて、資料館で無事にスタンプをゲットした後は、小谷城および小谷山の探検開始。おそらく、一日がかりとなりそうな感じ。
ところが開始早々、いきなり・・・。
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登城開始 |
大手道入口 |
クマ出没注意 |
松茸山につき入山を禁ずる |
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大手道が封鎖されています。そして「クマ出没注意」「松茸山につき入山を禁ずる」の表示が。柵があり、乗り越えようと思えば乗り越えられましたが、ここはちゃんと決まりを守って、アスファルト舗装された道を迂回。
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最初の曲輪「出丸跡」。さっそく上ってみましたが、なんとなく平削された跡が確認できたくらいでした。防御の時は最前線となる曲輪で、城下を見下ろすように設けられているとのことですが、眺めも悪かったです。
そこからは再び山登り。途中「間柄峠」という表示がありましたが、峠ではありません。ただの上り道の途中。表示板によると、ここには佐々木六角氏が攻めてきた際に、城主の浅井亮政の援軍としてやってきた越前朝倉氏の先鋒、間柄備中守が布陣した場所だったkらということらしいです。
しかし、そこからしばらく行った先の「望笙峠」からは琵琶湖の美しい姿を見ることができました。正面には竹生島が見えます。そして、そのしばらく先が「金吾丸」という曲輪。草木深く、実際に立ち入ることすら困難な感じだったので、かまわずさらに登っていくことにしました。
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望笙峠からの眺め。琵琶湖に浮かぶ正面の島は「竹生島」
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主郭(南側)〜本丸ほか〜 |
案内板
ここまで車で行ける |
クマ出没!【注意】
多数の目撃例が・・・とある |
番所跡
写真左側 |
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番所跡。小谷城の中枢部に向かう起点となる位置にあります。だから、ここに番所を設けたのだと思いますが…。実は、何とか車でもここまでは上ってくることができるようです。駐車スペースはほとんどありませんが、道路わきには割と多くの車が停めてあり、ガイドさんもいましたので安心しました。
ただ、ここにも「クマ出没注意」の看板が。ガイドのおっちゃんは「心配いらんよ。」と笑って言ってました。
この番所跡、小谷城の本丸へ向かおうとするならここにつながるように道がつくられていました。登城者の検問所です。削平地が確認できますが、さらにその下方にも数段の削平地があるということです。
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虎御前山 |
御茶屋跡 |
正面、馬洗池 |
馬洗池 |
馬洗池の石組遺構 |
御馬屋跡 |
桜の馬場 |
浅井氏家臣供養塔 |
首据石 |
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いよいよ中枢部へ。
主郭の最南端、最初の大きな曲輪、「御茶屋」へと向かう途中の景色。正面の島のような小山は、「虎御前山」といって、天正元年(1573)の小谷城攻城戦の時に、織田軍が本陣を築いた山だということです。
馬洗池。水が貴重な山城にあって、馬を洗うのに本当にこんな水が使われたのかは疑問ですが、このような名がついています。現在でもかろうじて水が溜まっていますが、さらに驚きなのは石組遺構が確認できること。往時の小谷城の痕跡を発見です。
御馬屋跡、桜馬場跡(浅井氏家臣供養塔がある)をこえてさらに歩くと、道端に「首据石」という不気味な名前の石があります。これは、その名の通り、天文2年(1533)に浅井家初代、亮政が佐々木六角氏と戦った際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたので、謀殺して首をここにさらしたと伝えられています。
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右、赤尾屋敷跡 |
黒金門跡 |
大広間跡 |
大広間跡(本丸から) |
井戸の跡(大広間) |
本丸石垣(大広間から) |
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ここから帯状になっている曲輪伝いに東に回り込むと浅井氏の重臣だった赤尾氏の屋敷があった場所に行けます。ここは、浅井長政が小谷城落城の際に自刃した場所と伝えられているところです。ただ、ここへ行くのは後回しにして、さらに上の曲輪に向かいます。
黒金門の遺構。門の遺構としては、ここがもっともよく残っているのではないでしょうか。両側を石垣で囲んだ門で、重要な門だったことがうかがえます。それもそのはずで、この先には大広間跡と伝えられる広大な曲輪があり、おそらく城主の居館があった場所と考えられているからです。
その大広間跡。別名千畳敷ともよばれる小谷城最大の曲輪です。ところどころ、礎石らしき石の跡や、半ば埋まってしまいつつある井戸の跡などが確認できます。ここから本丸方向へと目をやると、石垣が目を引きます。ここが「日本100名城スタンプ」のデザインにもなっている石垣だったのです。
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本丸 |
赤尾屋敷跡から本丸土塁 |
赤尾屋敷 |
浅井長政自刃の地 |
大堀切 |
御局屋敷跡 |
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そしてついに本丸。二段になっています。おそらくここには何らかの建物があったことが予想されますが、よくわかっていません。ちなみに、ここからほど近い彦根城の西の丸三重櫓は、ここ小谷城の天守閣を移築したものという言い伝えもあります。
本丸から強引に直下にある「赤尾屋敷跡」へと向かいます。高い土塁を滑り降りる感じです。浅井長政の自刃の地には小さな石碑が立っていました。小谷城が落城した天正元年(1573)の9月1日、最後の攻撃のため、黒金門から討ってでた長政は、信長の兵に攻められ、本丸に変えることができず、やむなくここにやってきて自刃しました。享年29歳。
本丸の北側には「大堀切」の遺構がはっきりと残っています。織田軍が攻めてきた際は、この大堀切を境に本丸を守る浅井長政と、本丸の北、小丸に本陣を置く、父の久政との連絡を絶つため、この付近から攻めてきたということです。
本丸の北へと向かう前に、大堀切をぐるっと反対側(西側)に回ると、「御局屋敷跡」という曲輪があります。名前から浅井長政の妻で織田信長の妹、お市の方の屋敷があったのではとも考えられています。茶々(淀君)、初らもここで生活し、お江もここで生まれたのかもしれません。
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主郭(北側)〜小丸ほか〜 |
中の丸へ |
中の丸(三段からなる) |
中の丸中段へ |
中の丸石垣 |
刀洗池 |
中の丸上段(この先京極丸) |
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さて、堀切をはさんで北側の曲輪群へ。まず最初にあるのは中ノ丸です。小谷城が落城したのは、ここを羽柴秀吉軍に攻められ、本丸と小丸とを分断されたことが大きいです。この中の丸の上には京極丸があります。京極丸は大広間に次ぐ二番目の広さ。その手前には刀洗池という小さな池があったそうです。かろうじてその痕跡を見ることができます。
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小丸跡 |
崩壊した石垣1 |
崩壊した石垣2 |
大石垣 |
苔むした大石垣 |
山王丸 |
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そして小丸。二代城主、浅井久政が隠居後に居住したところと伝えられているところ。見どころはこのこの小丸周辺のごろごろした石垣の痕跡とともに、東側斜面にある通称「大石垣」。小谷城の中でもっとも目を見張る石垣遺構です。
最後に山王丸(三王丸とも)。小谷城の中でも最も高所にあります。山王権現を祭っていたからだとか。
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小谷山山頂〜大嶽城ほか〜 |
大嶽城跡(山頂)へ |
山頂を望む |
六坊跡 |
清水谷方面下山ルート |
月所丸跡方面 |
至大嶽城跡560m |
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小谷城散策はまだ終わりません。さらに山奥へ。小谷山の主峰、大嶽城跡へと向かいます。はじめわずかに下るのですが、すぐに登りになります。割と急峻な登りをしばらく行くと、大嶽城の峰が山間から見られました。この付近で時雨にあったのですが、重装備だったので気にならずです。ゴアテックスのレインコート、役に立ちました。
六坊跡。かつてここにいくつかのお寺があったそうですがまったくその痕跡はなく、時代の流れを感じさせられます。その先は辻道になっていて、さらに北を目指すと月所丸という曲輪があるそうです。ここは訪れても引き返さなければならないため、訪問を断念。その反対側の下り道は「清水谷」方面への下山ルートになります。そして、もう一つの階段の上りが大嶽城跡すなわち頂上への道。
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伊吹山
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小谷城のある尾根
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途中の岩尾というところからの眺めがすばらしい。遠く東の方に目をやると伊吹山が見えます。そして、さっきまでいた小谷城の主郭がある尾根も一望できます。はじめ小谷城が築城されたときは、この小谷山山頂である大嶽城跡にあったそうです。
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動物のフン |
山頂(大嶽城跡) |
三等三角点の碑(埋まってる) |
下山 |
福寿丸跡 |
山崎丸跡 |
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そして頂上。標高495m。頂上からの眺めは最高といいたいところですが、茂みに阻まれて大したことはありませんでした。それでも、何人かの登山客がお弁当を食べています。
下山。福寿丸、山崎丸の遺構を確認しようと思いましたが、どちらも案内板のみでまったく分からずでした。ずっと下りだったので、自然と歩くペースも早くなり、一気にふもとまで。約4時間弱の登山でした。お城めぐりというより、完全に山登りでした。
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2010.11.03訪問
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100名城トップ |