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 トップページテーマ日本100名城探訪記月山富田城 第65番 月山富田城
第50話 月山富田城
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花の壇と月山
日本100名城スタンプ設置場所
安来市立歴史資料館
スタンプのデザインは「花の壇」とよばれる曲輪から月山の山頂を望んだアングルになっています。見て分かるように、月山の山頂部の形がスタンプはデフォルメされています。山頂にある本丸を目指すのであれば必ず通る場所にあるので、すぐに分かると思います。

■探訪記(2011.04.30)
 所在地 : 島根県安来市広瀬町富田


月山富田城

月山富田城は山陰に名をはせた戦国大名尼子氏の居城だったところです。尼子氏は毛利氏などとともに中国地方の覇権を求めて争いましたが、最後には滅んでしまいます。現在では曲輪の跡や石垣を残すのみですが、その急峻な山城の雰囲気はかなり感じることができます。




大山

 別名「伯耆富士」または「出雲富士」。標高1729m。おそらく山陰で最も知られている山のひとつでしょう。この大山を見ながら関西方面より中国道、米子道を経て月山富田城へ向かっていきました。


登城開始

史跡月山戸田城絵図

 さすが山陰地方の雄、陰陽十一ヶ国を領有した尼子氏の本城です。かなりの規模を誇っています。三の丸、二の丸、本丸のある標高189mの月山を中心にその山麓までを含めた複郭式の城郭です。


駐車場、つまりアクセスの起点は「安来市立歴史資料館」です。ここは同時に道の駅にもなっています。到着したときはまだ開館時間前だったので、駐車して登山装備に着替えて月山の頂上を目指すことにしました。

麓の入口広場から山頂の本丸までゆっくり歩いて小一時間。いくつかの曲輪跡を経ながら登っていきます。いきなり険しいですが、こんな道がずっと続くわけではありません。


尼子興久墓

太鼓壇公園

尼子神社

道の駅の裏手から登城を開始してまもなく、尼子興久墓なるお墓があります。手入れはそれなりになされているのですが、城主尼子経久の子の墓としてはいささか・・・という気がします。「興久は経久の三男である。原手郡七百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年八月父にそむき、敗れて妻の父備後冑山城主山内大和守直通にたよったが、天文三年自殺した。年三十八歳であった。」とあります。

初めに行きつく曲輪跡が「太鼓壇」。ここは「太鼓壇公園」という公園になっているのだそうです。ただ、見た通り草ぼうぼう。整備されているとは言い難いですが、尼子神社、山中鹿介像などがあります。


山中鹿介幸盛像

山中鹿介幸盛(生年不詳〜1578)
太鼓壇にある山中鹿介の像です。尼子十勇士のひとりです。あの有名な台詞「願わくは我に七難八苦を授け給え」と祈っている場面だと思います。尼子氏が滅亡した後も、主家の再興のために生涯をささげた人物です。

この付近、遅咲きの桜が満開でとてもきれいでした。八重桜だと思います。



花ノ壇

花ノ壇へ

花の壇と復元建物

復元建物

さらに上段へ。この先の曲輪は「奥書院」「花ノ壇」「山中御殿」と続きます。

さらに登って行った先に「花ノ壇」があります。花がたくさん植えられていたことからその名の通りの名前が付けられたとの事です。ここには、再現建物があります。ただ、さほど立派な建物ではありません。城内に再現されているほぼ唯一の建物といってよいかと思います。実際には、管理棟として使用されているようですが、私が訪問した時は、施錠され、中さえ入られなくなっていました。

ちなみに、この姿が日本100名城スタンプのデザインになっています。後ろに見えるのが月山で、頂上部分に本丸があります。


花ノ壇とその前に通った太鼓壇、そして山頂の本丸までの位置関係は、この付近にあった絵図で確認することができます。


山中御殿

堀切跡?

花の壇の復元建物

通路跡

「花ノ壇」の先に「山中御殿」という大きめの曲輪があるのですが、その二つの曲輪の間には堀切ともいえるような谷にはさまれています。もちろん復元工事がなされているのでしょうけど、その高さには驚きです。攻めてとしてもこの高さまであればなかなか攻めづらかったのではないかと思います。

この付近には通路跡もありました。


この先「山中御殿」

山中御殿へ

御殿入口

目を見張る石垣

山中御殿から月山を望む

雑用井戸跡

菅谷口

復元石垣

塩谷口

山中御殿には当時のものかどうか分かりませんが立派な石垣が残されています。ここは規模も大きく、また名前の通り御殿があったと伝えられていることからも、おそらくこの城の中でも主要な曲輪だったといえると思います。

ちょうど三ノ丸、二ノ丸、本丸へと続く後詰めの曲輪を後ろに控え、城下から登城する際の多くの主要通路の最終地点となっていた位置にあり、本間れうへと続く時は一旦この曲輪を必ず経由するといっていいと思います。


山頂の曲輪へ

本丸へ

いよいよ城の中枢部へ。ここからは急な坂を登っていきます。そんなに高いわけではないですが、山登りを覚悟させられるような道。


頂上まで20分

石畳の道

親子観音

さらに登る

山吹井戸跡

三ノ丸が見えてきた

頂上まで20分。それなりに体力を消耗するはずです。

ところが、なかなか歩きやすい道。気がつくと石畳になっています。おそらく尼子氏時代からそのまま残されているものと思います。往時はこの道も主要な通路だったという証拠です。山道にこのように人工物が残されている点、こういったものを見つけていくことも山城をめぐる際に忘れてはならない事だと思っています。

この付近の山道は「七曲り」といわれています。山の中から吹き出す井戸があることからその名がつけられたという「山吹井戸」があると案内があります。よく探すとかろうじて発見。ほとんど埋まりかけていますが、一応水をたたえています。


山頂の曲輪群(三ノ丸・二ノ丸・本丸)

三ノ丸入口

積みなおされた石垣

この先は二ノ丸た

いよいよ山頂の曲輪に到着しました。初めに三ノ丸。

発掘調査によって地中から崩落した石垣がみつかり、近年になって積みなおされています。地中から掘り起こした石は苔が生えていないことから区別できるそうです。


二ノ丸

二ノ丸復元建物

二ノ丸石垣

次に二ノ丸。

山頂部の三つの曲輪は連郭式に配置されています。つまり、本丸に向かう時は、横一直線に三ノ丸、二ノ丸を経由していくことになるのです。この二ノ丸にも立派な石垣が築かれています。殊に本丸との間には深さが約10mもある空堀(堀切)があります。発掘調査では、この二ノ丸から建物跡のほか、備前焼の甕なども見つかっています。ちなみに復元建物があり、中は休憩所となっています。

ただ、トイレがありません。山上の曲輪跡にはこのように復元建物と休憩所はありますが、トイレが見当たりませんでした。


この上が本丸

本丸から二、三ノ丸を望む

本丸

最後に本丸。

ここはそれまでの曲輪と違って少し小さめです。また、全体は二ノ丸や三ノ丸と違って石垣ではなく、土塁で築かれています。崩落してしまっただけなのか確認できませんでしたが、本来お城で最も重要な部分である本丸だけが土塁なのはおかしい気がします。また、他の曲輪と違って木々が生い茂っており、狭く感じました。


この本丸からの眺めはなかなかのもの。今でこそのどかな風景が広がりますが、尼子氏滅亡の戦いとなった永禄9年(1566)の富田城攻城戦では、毛利元就軍がこの山一帯を大軍で包囲したということですから、皮肉にも敵方の軍勢がよく見えたことでしょう。この戦い、最後には尼子義久が毛利元就に降伏してしまうことで、終焉し、同時に尼子氏も滅亡してしまいますが、先に紹介した山中鹿介は毛利方の豪傑、品川大膳を一騎打ちで打ち破るなど活躍をしました。


山中鹿介の塔

よく見ると割れている

本丸にあった無人の神社

本丸には、その山中鹿介幸盛の塔がひっそりと立っています。この塔、どう見ても二つに割れてしまっています。いつ、どのようにしてそうなったのか分かりませんが、残念です。ちなみに、無人の神社があってかなり不気味。山頂の曲輪はほとんど人の気配もなく、しんとしてふと思えば恐ろしくもなります。


安来市立歴史資料館 - 100名城スタンプ設置場所 −

外観

日本100名城認定証

スタンプ設置場所

さて、ふもとに降りてきて、道の駅に併設してある「安来市立歴史資料館」を見学。月山富田城の歴史とともに、山陰の雄、尼子氏の歴史を知ることもできて勉強になりました。

ここでめでたく100名城スタンプもゲットしました。場所によっては100名城スタンプの設置場所はいまいち分かりにくいところもあるのですが、大概は写真のような設置場所を示す看板があるので大丈夫です。それでもわからないときは、係の人に尋ねたら、気軽に答えてくれます。ちなみのちなみに、スタンプのデザインと同じ場所を尋ねると、わかる場合とわからない場合の半々。当然のことながら、係の人がわからなかったら、自力で足で探すことになります。



尼子経久像
〜 尼子氏最盛期の当主、近くにある三日月公園にあります 〜


三笠山
〜 その昔、山中鹿介はこの三笠山にかかる月に向かって「七難八苦を与え給え」と祈ったといわれています 〜


2011.04.30訪問

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