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第51話 松江城
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松江城天守閣
日本100名城スタンプ設置場所
天守内受付
スタンプは松江城の天守閣を正面から見たデザインです。多くの人がここから天守閣を撮影する定番の場所です。撮影場所を探して迷うことはもちろん一切ありません。

■探訪記(2011.04.30)
 所在地 : 島根県松江市殿町1-5


松江城

松江城は堀尾氏が築いたお城です。立派な天守閣は江戸時代から現存しており、国の重要文化財に指定されています。別名を千鳥城といいます。堀尾氏の改易後は京極氏、松平氏と続き、明治維新まで松江藩の藩庁として存続しました。


島根県庁

島根県庁

松平直政像

県庁付近から天守閣

月山富田城の山登りと同日。とはいえ、早朝からの行動だったので、松江城にはちょうど昼時に到着しました。お腹はそこそこ空いていましたが、宍道湖七珍を食したいと思っていたので我慢。

さて、松江城の始まりは隣接する県庁から。ここには松江藩の藩主だった松平直政の像がありました。ポチャっとした姿をした若武者です。しかし、解説文を読むとなかなかの人物。まず父親はあの徳川家康の二男、将軍にはなれなかったですが、秀忠の兄にあたる結城秀康です。そして、直政自身も大坂夏の陣では真田丸に挑み、敵方だった真田幸村に称賛されるほどの武勇を誇ったというのです。

本丸方向を望めば割と大きいと感じるほどに立派な望楼型の黒い天守閣が望めます。一方、島根県庁は小さめ。旅行の際は全国の都道府県庁を撮影してコレクションにしています。なので、それぞれの場所で個性を感じています。


登城開始

広いお堀と櫓群

お堀越しの島根県庁舎

千鳥橋

さて、広いお堀は火縄銃の射程距離を意識してでしょうか。ちなみに時代や性能にもよるのでしょうけど、だいたい射程距離は65mと聞いたことあります。そのお堀越しに復元された櫓群や塀が見えます。これは、古写真をもとに木造で忠実に再建されたものです。

そしてもう一度お堀越しに島根県庁。かっこいいです。その奥には千鳥橋。松江城の別名は千鳥城といいます。


馬溜り

松江開府400年博

二之丸下の段

この広い一帯は大手前と二之丸下ノ段とをつなぐ「馬溜」とよばれている部分。松江城の中枢へと続く重要な場所にあります。上に見える櫓は太鼓櫓です。

訪問した2011年は堀尾吉晴が松江城を築城してちょうど400年の節目。この21世紀初頭というタイミングは、全国数々のお城で築城400年を迎え、記念イベントや復元建築のラッシュが続いています。ここでは「松江開府400年博」なるイベントが催されていました。

いよいよ大手門跡から松江城の中枢部へ。松江城の二之丸は下の段と上の段に分かれています。そればかりでなく、本丸との間、いや本丸の一部なのかどうかよくわかりませんが、「中曲輪」だの「腰曲輪」だの様々な曲輪があり、なかなか複雑です。

さて、その二之丸下の段は江戸時代には米蔵や屋敷などのほか、「荻田稲荷社」なる神社があったとのことですが、今は広い単なる曲輪跡といったところです。それは明治維新の時に、天守閣を除いて不要となった建物群がことごとく解体されたからです。ちなみに、この場所は明治33年には島根一中と鳥取中の猟犬初の野球試合が行われたといいます。つまり、両県にとって、この地は「野球発祥の地」ともいうべきところなのです。


復元された櫓群

三ノ門跡

太鼓櫓

太鼓櫓内部

中櫓

中櫓内部

南櫓

三の門跡をくぐった先は南側に二之丸上段がひかえます。江戸時代には中央に御書院があって、藩主の居宅だった時期もあります。東側には平成13年に復元された櫓群がひかえ、西側には明治36年建築の興雲閣なる洋館と松江神社があります。

まずは、再建された櫓群を見学。
中にも入れます。
まずは太鼓櫓。二之丸の北東隅に建てられた櫓です。特徴的なのは平屋建てだということ。江戸時代を通じて描かれている絵図には「太鼓櫓」という名前で記されています。城内に時刻を知らせる太鼓があったと考えられているのです。

次に中櫓。これも平屋建てです。江戸時代前期には「中櫓」または「東ノ櫓」と文献や絵図に見られますが、幕末には「御具足櫓」とも呼ばれていました。武具を補完する倉庫だったと考えるのが妥当かもしれません。

最後に南櫓。これは二階建て、重層になっています。この櫓の用途はわかっていません。ちなみにこの南櫓のすぐ裏手から千鳥橋を渡ると城外にすぐに出られます。大手前を経由せずに松江城に向かった際は初めにここに行きつくことになるかと思います。


二之丸上段西(興雲閣、松江神社)

興雲閣(松江郷土館)

御書院跡

松江神社

二ノ門跡

弓櫓

本丸入り口

次に西側に向かいます。一段高くなっている先に洋風の建築が見られます。これはもちろん江戸時代にはなかった建物です。先に紹介しましたが、この建物は「興雲閣」といい、明治36年(1903)に松江市が建設したものです。目的は天皇行幸の際の旅館だったのですが、完成の翌年に日露戦争が勃発。結局、明治天皇の行幸はかないませんでした。しかし、明治40年に時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が参院を行啓し、その時に宿泊所として利用されました。現在は松江郷土館となっています。

もう一つ、御書院跡の碑の後ろに控える神社。これが松江神社です。祭神は現地の案内板によると四柱。
松平直政公(松平初代藩主)
堀尾吉晴公(松江開府の祖)
松平治郷(不昧)公(第7代藩主)
徳川家康公
本殿は寛永5年(1628)、拝殿は寛文元年(1661)の建築とのことですので、本場の日光東照宮とほぼ同時期くらい。同じく権現造となっています。

二の門跡を通って右手が本丸へ通じるルート。内枡形になっていて、石垣上には弓櫓が控えます。そしていよいよ本丸。


天守閣

いきなり天守。思ったよりでかいです。特に他のお城の天守と比べても最上階が大きめな印象を受けるので大きく感じるのかもしれません。木造の天守は現存12天守のひとつで、国指定の重要文化財です。何と国宝指定を目指しているのだとか。典型的な望楼型天守閣で、正面から見ると大きな入母屋破風が見られます。中に入るのは付属の附櫓からとなり、いかにも堅牢です。


附櫓の中に受付があってここで100名城スタンプをゲット。登っていきます。

地階は「穴蔵の間」といい深さ24mの大井戸があります。天守閣の、しかも内部にこれだけの深さの井戸があるのは珍しいです。そういえば、伊賀上野城にも同じくこのような深い井戸があり、その井戸から城外に通じる抜け穴があったという言い伝えがあったことを思い出しました。松江城のこの井戸も、同じような想像をかき立てるに十分な深さがあるように思えます。

内部の展示の中には、島根県庁にあった松平直政像と同じものがありました。最上階からの眺めはなかなかのものです。南西方向には宍道湖を望むことができます。


花ノ壇へ

花の壇と復元建物

復元建物

再び地上に出て天守閣をぐるっと。
妻側にも巨大な入母屋破風があります。構造的にはこの入母屋破風の上に望楼が乗っかっていることになります。それにしても正面から見るのとでは全く違った建物に見えるのが不思議です。

彦根城天守石垣にも見られた牛蒡積み。一見崩れやすそうに見えますが実は最も堅固な積み方のひとつとのこと。このような特徴ある石積みが可能だったのは、現在の滋賀県大津市出身の石工集団、穴太衆の技術の粋によるものです。


訪問したのは4月末なのでソメイヨシノの時期は終わっていましたが、代わりに遅咲きの八重桜が天守閣を彩っていました。松江城のある松江城山公園は「日本さくら名所100選」にも選ばれています。公園内には約360本の桜があるそうです。



堀川めぐり

 松江城のお堀をめぐる小舟の遊覧船。時期によって多少の違いはありますが、15〜20分間隔で運行しています。


2011.04.30訪問

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