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 トップページテーマ日本100名城探訪記篠山城 第57番 篠山城
第35話 篠山城
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大書院
日本100名城スタンプ設置場所
大書院館内
スタンプのデザインは平成12年の大書院復原工事竣工時のものだと思います。同様のアングルでも撮影を試みましたが、成長した木立に阻まれて大書院の威容を撮影することは不可能です。代わりに、ちょっとだけ違ったアングルで撮影したものを掲載しました。

■探訪記(2010.08.07)
 所在地 : 兵庫県篠山市北新町2−3



デカンショ祭り準備中

 篠山城にきて最初に気がついたのが祭りの準備のためにやぐらが造られていたことです。調べると「デカンショ祭り」なる夏祭りが開かれるとの事でした。「デカンショ」という響きに興味を持ち、一体どういう意味がるのだろうと追究することにしました。

 ただ、「デカンショ」の追究に先立って日本100名城めぐりという本来の目的も忘れてはいません。とりあえず、城内をめぐることにしました。


篠山城について

 典型的な輪郭式の縄張りだと思うのですが、二の丸と本丸の位置関係だけをみると梯郭式になります。大手門は珍しく北側にあり、そこをくぐったら、北廊下門へ通じ、二の丸、本丸へ至ります。

 このお城は、天下普請で造られたもので、縄張りは藤堂高虎が担当したということです。築城当初は、あまりの規模の大きさに家康自身が驚いたということですが、実際に見た限りでは、さほど大きなお城とはいえません。

 また、西側を除く三方に「馬出し」がありました。各馬出しの外側には堀を設けてあり、堅固な造りになっています。現在では、南側の馬出しが最も保存状態がよく、次いで東側になります。大手門のあった北馬出しは現在では残されていません。


登城

篠山城登城口

内堀の犬走り

北廊下門跡

 北側入口近くには駐車場があり、そこに車を停めての城内散策が可能です。現在のメインゲートである北側から登っていくことになります。その登り口にある内堀はおそらく復元整備されたものだと思いますが、篠山城の威容を垣間見られる場所のひとつだと思います。

 特徴的なのが「犬走り」が広く設けられていることです。内堀を渡河した攻め手の兵に対して足場を作ってあげているようなものなので、素人目に見たらない方がいいのではと思ってしまいます。そういえば、大分府内城や今治城にも犬走りがあったのを思い出しました。特に、今治城はここ篠山城の縄張りを担当した藤堂高虎が築城したお城なので、犬走りは高虎好みのものなのかも知れません。

 北側登城口付近には北廊下門という門があったようです。復元された大書院内の模型によると、この門は屋根つきの門で、内堀を渡るように造られていました。したがって、かなり堅固なものだったに違いありません。さらに、二つの桝形を経て、やっと二の丸(江戸中期以降は「本丸」とよばれていた)に至ることができるのです。



二の丸・本丸を北側からみた篠山城模型


二の丸(本丸)

本丸(殿守丸)

大書院の位置

大書院

井戸

車寄せ

外観

入口受付

大書院内部

上段の間

 大書院が立派に復元されていました。外観は二条城の二の丸御殿にそっくりでした。これは、それを模して再建されたわけではありません。この大書院は昭和19年(1944)まで現存していましたが、惜しくも焼失してしまったのです。

 再建された大書院の入口で「日本100名城スタンプ」ゲット。スタンプのデザインはこの大書院をかたどっていました。同じく日本100名城の認定証も飾られていました。この建物は藩の公式行事などが執り行われていた重要な建物で、内部には藩主の着座する上段の間など八つの部屋がありました。


二の丸・本丸

二の丸御殿跡

埋門(二の丸南)

二の丸からの大書院

本丸登り口

青山神社

青山忠誠公追慕碑

 藩主の平素の居館があった二の丸はかなりの広さがあります。現在では大書院以外の建物は失われていますが、礎石などが整備されており、当時の建物の様子が分かるようになっています。さらに、南側には埋門があります。篠山城模型で確認すると、二層の櫓の下にあった櫓門形式だったことが分かります。現在では扉の部分しか残されておらず、さらに開かずの門になっています。

 なお、二の丸とは創建時の呼び名で、江戸中期以降はここが本丸だったそうです。


天守台

天守台

天守台登り口

天守台上

丹波富士
中世の八上城跡

篠山市役所方向
手前は三の丸にある篠山小

三の丸
南側のながめ

 徳川家康が命じて築城された、いわゆる「天下普請」のお城だったにもかかわらず、そのあまりの豪勢さに当の家康の怒りをかい、そのために一度も天守閣が建てられないまま、現在まで残されています。天守台石垣は大して立派なものではありません。ただ、外側から見れば、なかなかの高さがあるらしく、説明板によれば、石垣の高さは約17mもあるそうです。

 天守台から東側をのぞむと高城山(丹波富士)が正面に見えます。この山には八上城という中世の山城がありました。篠山城が築かれるまでは、その八上城がこの地域の中心的なお城でした。


馬出し

 大きく3か所の出入り口を持っていた篠山城には、それらの出入り口を凹字形の堀と塀で囲んで形成した「馬出し」という施設をつくっていました。篠山城にあった三か所の馬出しのうち、北側は残されていません。東側の馬出しがあった場所は緑地となっており、かつてここが「東馬出し」だったことを示す説明板があります最も現在でも形を確認しやすいのが南馬出しで、整備された土塁があるほか、その外側には立派な堀もあります。


お徒士町通り 武家屋敷群

小林家長屋門

御徒士町通り

武家屋敷群

 篠山城の西にあったのが「御徒士町武家屋敷群」です。江戸時代の街並みが保存されています。この付近は南馬出しからも近く、散策しながらそれらの遺構を見て歩くのも可能です。西南隅には「振徳堂」という篠山藩の藩校がありました。


城下町

大正ロマン館

篠山市役所

デカンショ節100年記念碑


「デカンショ祭り」のデカンショとは・・・?


 「デカンショ」の意味については諸説あります。

 私が、篠山のとある食堂で地元の人たちに聞いたら、篠山の人たちが「丹波杜氏」となって灘などの酒造りに出稼ぎにいっていたことから、「出稼ぎしよう」がなまって「デカンショ」となったといっていました。


2010.08.07訪問

第34話 五稜郭 第36話 竹田城

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