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■探訪記(2009.04.30) |
所在地 : 新潟県上越市大字中屋敷
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直江兼続
「天地人博」にて |
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「天地人」ですっかり有名になった直江兼続をはじめ、越後の龍、上杉謙信ゆかりのお城が、この春日山城です。写真は正面上に、白馬にまたがる上杉謙信で、手前は向かって左から謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎そして景勝の家老だった直江兼続です。
南北朝時代に築城されたと伝わる春日山城は、上杉謙信、景勝のころに最盛期を迎え、巨大な山城を形成していたということです。
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春日山城全景 |
春日山城全景 |
春日山城復元模型 |
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春日山城史跡広場(復元された監物堀) |
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春日山城への登城口として、この春日山史跡公園を起点としました。ここには、「春日山城跡ものがたり館」という施設があって、春日山城の往時の姿や歴史を知ることができます。また、ここでは日本100名城スタンプもゲット!スタンプの絵柄も割とすぐに見つけられました。このすぐそばに復元されている監物堀という堀とそれを囲む土塁です。
なるほど、春日山城は山城でありながら、このように山麓に堀をめぐらせた巨大なお城だったのかと改めて確認できます。案内板にもあるように、ここからは本丸どころか春日山がどこなのかさえ確認できないほどなのです。
実際、ここから春日山城の登城口や謙信公ゆかりの林泉寺まではかなりの距離があります。私は、今回は自前の自転車で移動していたので問題はありませんでしたが、歩くとなるとかなり距離があるでしょう。車なら問題ありませんが。
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林泉寺 |
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林泉寺は春日山山麓にある上杉謙信公ゆかりのお寺です。謙信は、7歳から14歳までここで文武の修業に励んだそうです。監物堀と春日山の間に位置することからも、春日山城内にあるといってよいでしょう。
まず最初に素朴なつくりの惣門が迎えてくれます。この惣門は、春日山城の搦手門だったのを、上杉謙信公が移築したと伝えられており、これが本当だとすると、現存する唯一の春日山城の遺構ということになります。さらに、その奥に立派な山門と本堂が建ち並んでいました。
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山門の二つの大額はともに上杉謙信直筆のものということです。外側(惣門側)には山号でもある「春日山」、内側(本堂側)には上杉の旗印でもある「義」の文字が見えます。「第一義」とはいい言葉です。山門天井には龍の絵も見られます。
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林泉寺にある上杉謙信公の廟所。上杉謙信は天正6年(1578)に49歳で春日山城内で亡くなり、ここに葬られたということです。この時期は新緑が美しく、木漏れ日がやさしく降り注いでいました。この緑の中にひっそりと上杉謙信のお墓があるのです。傍らには、川中島合戦で戦死した将兵の供養塔もあります。
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春日山神社 |
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再び林泉寺の山門までもどってきて、自転車に乗り、春日山方面に向かいます。御館川を渡りいよいよ坂を登っていくと春日山神社の駐車場があります。ここからは自転車も車も降りて、いよいよ徒歩での登りになります。そうです。ここからが本格的な春日山城の登城となるのです。
駐車場の片隅に自転車を停めて、最初に挑むのがいきなり気の遠くなるような長い石段です。これを登ると春日山神社の本殿です。「老母屋敷址」という碑が立っています。
神社裏に延びる途上ルートをいったんそれ、かつて馬場があった付近へ向かうと、上杉謙信の銅像があります。川中島方面を向いて立っているということですが、その眼光の鋭さ、なかなか秀逸な銅像に見えます。
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登城 |
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春日山神社の裏手を登っていくと千貫門跡へ。春日山城内でも最も重要な門の一つだったらしく、いろんな絵図に載っていたそうです。実際は、礎石や門の遺構は見当たらず、この付近にあったのだろうというくらいしか分からず、どこにどのような方向であったのかなどよく分かりませんでした。
しかしその先、今でも状態がよく残っていたのが空掘跡でした。一見、道のように見えますが、防御の面でも非常に重要な堀だったようです。実際、その高さはなかなかのもので、下から見ると切り通しのような感じに見えます。
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さて、さらに上には虎口がありいよいよ春日山城の中枢部に入っていきます。しかしながら、虎口とはいえ、規模は大きくなく、人が一人通れるくらいの幅です。往時はもう少し広かったのでしょうか。
この虎口はまっすぐではなくお城によく見られるようなクネクネした道になっています。防御を意識しているのでしょう。先ほどの空掘や堀切、あるいは大小たくさん見られる郭などから考えても春日山城がいかに難攻不落のお城だったのかが分かります。
虎口を抜けた先は郭が三段になっていて、いずれも上杉氏の重臣、直江家の屋敷があったところとされています。あの直江兼続の邸もここにあったことでしょう。眺めも良く、新緑に彩られた山々が非常に美しかったです。
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春日山山頂付近(毘沙門堂・本丸・天守台) |
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直江屋敷跡のさらに一段上の郭は「お花畑」というおしゃれな名前がつけられています。このお花畑は、ほぼ春日山城の山頂に近く、ここから毘沙門堂、本丸、天守台といった春日山城の中枢には簡単にいくことができる位置にあります。
毘沙門堂は、上杉謙信が信奉し、自らも毘沙門天の化身と称したこともあって春日山城でも最も重要な建物だったことでしょう。現在は、小堂が建てられていますが、もちろん往時のものではありません。中には毘沙門天の小さな像が安置されていました。
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本丸跡 |
本丸からの眺め |
天守台 |
大井戸
今でも満々と水をたたえている |
油流し
絶壁で登ることが困難なので |
鐘楼跡
現在は何も残っていません |
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そして、いよいよ春日山城の最高部、本丸に到着です。隣接する天守台と呼ばれる郭とともに、上杉謙信が過ごしていたところだと推測されるのです。眺めもよく、はるか遠くに直江津の港が見えます。
なお、この本丸と天守台の間の小道をさらに奥に進んだ先には、今でも満々と水をたたえている大井戸があります。このような山頂にしては珍しく規模も大きく、一瞬ため池と見まがうほどの規模です。なぜ、これほどの大きさの井戸がそれも今でも満々と水をたたえることができるのかというと、隣の山からサイフォンの原理で水が供給されているそうです。なるほど。
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二の丸、三の丸 |
景勝屋敷 |
御成街道 |
二の丸跡 |
二の丸井戸跡 |
上杉三郎景虎屋敷跡 |
三の丸に残る土塁 |
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大井戸から鐘楼跡を経た奥が上杉景勝の屋敷があったところだそうです。現在は鬱蒼と草が生い茂り、観光客もあまり立ち寄らないような場所のように見受けられました。さらに、この先、柿崎和泉守屋敷跡を経て、大手道に至るルートがあるのですが、今回はそこを通らずに、二の丸、三の丸を経て上杉謙信公の銅像があったところへと戻ってくるルートを選びました。このように、春日山城は規模も大きく、一度ですべてを見つくすことは到底不可能なのです。
こ上杉景勝屋敷跡付近から二の丸へと抜ける道は、御成街道と名付けられています。時の関白、近衛前嗣が通ったことから名付けられたということです。
二の丸はさほど大きな郭でもなく、一段上の、本丸や天守台などを囲むようにあり、帯郭といった感じの地形となっています。ここには、古絵図によると「御二階」「台所」とよばれるような建物があったということです。また、それらを見ると、現在では直接行くことはできませんが、直上の本丸と階段でつながっていたのが分かります。
さらに、その一段下が三の丸です。ここは、御館の乱で上杉景勝と争った三郎景虎の邸があったところだということです。また、城内では珍しく、当時の土塁跡の遺構が確認されるところでもあります。
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御館跡 |
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謙信は嫡子もおらず、自身の後継者を定めていなかったことから死後、御館の乱とよばれる後継者争いが謙信の二人の養子、景勝と景虎との間でおこりました。結局、景勝が勝利するのですが、その間、上杉氏の勢力は衰え、その後は、戦国時代の主役に躍り出ることはかなわなかったのです。
現在の御館跡はこのように児童公園「御館公園」となっており、石碑と案内板が建つのみになっています。
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御館跡地図(新潟県上越市五智1丁目)
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2009.04.30訪問
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